バリ島 ★ぶうげんびりあ (HTML版)


◆◆◆ おわりに ◆◆◆

マンゴーの苗 伸びるやふに

『ぶうげんびりあ』の執筆が第六十五話まで進んだ頃、テレビで金子光晴という作家の文を見る。

力強く美しい文である。

私が見たのは、金子の文に触れ、自らも作家を目指した『立松和平の旅』の番組だった。旅人は、貧乏に貧乏を重ねて、やっと賞を取り、作家としての生計が成り立つようになったのだという。

私はハッとする。

百話を目標に作り始めた絵やエッセイだったが、何かが足りないと、思い始めた頃だった。

金子光晴の文には、底力がある。どこを切り取っても、当時のアジアの風景が、写真のように脳裏に浮かび上がってくる。

文字をたどるごとに、景色の色や、気温の感触、人々のざわめきまでが伝わってくる。

細々と自己満足に過ぎない文を連ねてきた己は、『読者に何を伝えるのか』などということは、一瞬たりとも考えた事が無かった。

その番組を見たことで、『何も考えずに書いてきた自分の文』に対して、通りがかりの人に、いきなり『カウンターパンチを喰らったような衝撃』を受けたのだ。

『私は、何を伝えたくて、文を発信しようとしているのか?』作品の制作を中断し、この事を三日考えた。

もともと、エッセイを書き始めたのは、『本を一冊も読まなくても、取材などをしなくても、苦しまなくても文章が書けるから』という、安易な理由からである。『無職無収入だから、なんとか日銭も稼ぎたいので、有料のページも作ってみよう』という、怠惰なる生活の産み出した、怠慢なる動機からスタートしているのだ。

そんな人間に、高尚な文など書けるはずがない。

『どうしても伝えたい何かがある』というワケではなかったのだ。

と、ここまで考えると、思考が行き詰まる。

『それじゃ、何で書いてるんだろう?』

アタシが、金子光晴を目指したところで、あのような力強い文が書けるようになるとも思えない。

それは、アタシが、『サルバドール・ダリ』の絵を目指したところで、一生描けるようにならないのと同じ事である。

何かに迷った時には、目指すべき方向を勘違いしないようにしなくてはならない。

次の日、『アタシは、金子の本を完読できるのか?』を考えてみる。テレビでは、『力強くて美しい』と感じた文も、もしかしたら、自分には退屈で、最後まで読めない文かもしれないじゃないか。

例えば、全部読めたとしても、アタシのノウミソは、読んだ本の内容を一行足りとも覚えちゃいないのだ。一度読んで感激した本をもう一冊買ったりしてしまうほど、記憶力が希薄なのである。

今まで読んだ本のほとんどは、何一つ覚えていない。

それは、その本を読んでいないのと同じ事だと思っている。そういう理由で、本を読むこと大分前に辞めてしまったのだった。

それどころか、自分で書いた文の内容さえ忘れて、あとで読み直して、『こんなこと書いたかなー』と笑ってしまうくらいなのだ。おバカである。

そういう自分が、誰かの文を目指したりするのは、間違っているんじゃないかと思えてくる。

思考は更なる深みにハマったようだった。


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