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インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送(あとはいつでも見れますよん)

2012.4.26.

最近見たのは、奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年2月18日 - 1990年9月25日)は現代日本画壇の最高峰に位置した代表的な日本画家の一人。

日本画家。

代表的かぁ。

まあそうかな。何点も見たことはある。

土牛百篇と言われたのだそうだ。

どういう意味かというと。頼んだ絵が、なかなか出来上がらず、100回は取りに行かなければならないという意味らしい。

納得がいかないのだという。

そうだろう。それが画家というものである。

アタシも、注文された絵というのがあり、

何度見ても下手なので、いつか書き直そうと思いながら、そのままになっているのがいくつかある。汗。

オジャラよ、アンタはそれほどの画家じゃないだろう。

はい。そうでした。

古径の教えを受け、生涯彼に言葉に従い作品を作ったというナレーション。

小林古径展は見に行った。

日本画の静かさというものを教えてくれた画家である。

静やかなるものの中に潜む美意識。

それを作家が作り出す。

日本画を支配している根底だと思う。

静か過ぎて物足りない。

とさえ思わないわけでもない。

私は、そういった、評価の高い品を受け入れられない人に出会うと、

「誰が、何を持って、この作品を良いと評しているかを知ることです。世の中にはイロイロな価値があるのです。心を閉ざさず、ワカラナイものを自分なりに、解ろうとする気持ち。それが大切なんです。アート鑑賞というのは、否定しなければ、対象がどんどん広がってきて、見るというだけでもホントウに楽しい時間が増えますよ。」

この話を、理解できる人は僅かである。

それでも、アタシの日記を読んで、美術番組を丁寧に見るようになったと言ってくれる人も多い。

アタシの場合、盆栽から現代美術まで幅広い。

何だって「ヨイ」と評している人がいるのであれば、何をヨイと言っているのかを知るべきなのだ。

土牛の絵についてどうかと聞かれれば、前田セイソンの方が好きと答える。

あの独自の世界というのは、なんて素晴らしいのかと、梅の絵の前に立ち、絵に見ほれてしまう。

古径の絵は、やはり、下絵に忠実で絵の硬さが気になる。

日本画というのは、下絵をいくつも作り、それをトレースするという技法の人が多いのだ。

それは、絵の作り方だから仕方が無いのだが、完成具合といえば、石踊さんの絵のような、生き生きとした筆捌きが感じられる絵は少ないと思う。

石踊りさんの絵は、急いで描いた絵は、ついてないと思う。

まあ、そういう感想であり、やはり、前田先生は素晴らしいと思うのだ。

サラリとした絵であっても完成度が高く、そこには、精神的なものを感じる。

そういうことが、理解できるようになってきたということになる。

そうして、どうせ、日本画のセンセイがアタシの汚い素描を見れば、品がないなどと罵倒されるに決まっていると思い、自分の絵はどうならなければならないのかを考える。

この前、現代美術が好きという方が訪ねてきた。

アタシの作品を丁寧に見てくださった。

凸凹の、チューブから出したままの絵なども一緒に見る。

オジャラ「もう少し、美術的なクオリティーを上げたいと思っているんですよね。」

男「ハイ」

オジャラ「どこまで上げなければならないかは分かっているんです。(まだ、手に入れられていないだけで)」

男「そうですね」

オジャラ「でもね、美しくなりすぎて、この、自由さが失われてしまうんじゃないのかというのも心配なんです。どっちがいいかなんて、後にならないと解りませんよね」

男(笑いながら)「全くその通りですよね。どっちがいいかはね、わかりません」

絵というのは、結果だけなのだ。

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