◆◆◆ 1659 ★ 茶道・おじゃら流を立ち上げ、家元となる ◆◆◆

インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送(あとはいつでも見れますよん)

2011.9.30

そうだよ、最近のニュースとしては、地味に笑える内容として、茶道の流派を開いたって所かな。(→ここは、笑う所です)

へうげもの(ひょうげものと読む)という、マンガの中で、千の利休が、語っていた。

以下、アニメ「へうげもの」利休のセリフを引用

「あなたに、台子(だいす)手前の極意をお伝えいたしとう存じます。つまるところ、茶の湯には、台子もなにもないのです。すべて(主)各人の作った作法・趣向でもてなせば良いのです。決まりごとなどない、これぞ極意でございます」

豊臣秀吉が催そうとしている、大茶会を前に、秀吉には、茶道の本質も、ワビ・サビが分かっていない、茶道の極意なるものは、実は何もない、

それぞれが、自由にもてなせば良いのだが、それに格式をつけるために、極意などをもうけ、もったいぶっているという実態を、利休が嘆くシーンである。

ちなみに、ダイスという意味も解らなかったのでググる。

WIKIより引用。

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台子・臺子(だいす)は茶道の点前に用いる茶道具で、水指など他の茶道具を置くための棚物の一種。真台子・竹台子をはじめとして様々な種類がある。一般に格式の高い茶礼で用いるものとされており、とくに真台子は献茶式などで用いられている。真台子を用いた点前は、茶道の点前の精神的・理論的根幹を成すものと考えられており、奥儀・奥伝・奥秘などと呼ばれて最後に伝授される習わしである。

*-*-*-*-*--*-*-*-*-*-*引用おわり

まあ、茶の師匠から直々に奥儀を伝授されたというほうが、もったいぶっていてイイような気がするよね。あはは。

アタシが、茶道には、実は、作法などなく、自由なものだと気づいたのは、とある、骨董のムックの記事を見たときであった。

半月形にお茶を点てるというその流派は、ナントカ書いてあったけど、名前は出てこない。

WEBで検索すると、表は、半月形に茶を点てると出ている。表じゃなかった、武者小路でもない、別な流派だったと記憶するけどな。

流派の名前は、ここでは重要ではなく、茶道の流儀というのは、じつは自由なものだということを、利休本人が語っていることである。(あのマンガはフィクションです。キッパリ)

本来、茶の湯というのは、

「精一杯のおもてなしの心」

ここに集う一期一会の皆様のために、主が、客人に精一杯のおもてなしをする。

これが茶道の本質なのである。

構想はオシオッサさん、作ったのはアタシ

精一杯のおもてなしが、精一杯高い器でおもてなしする。

というのにすり替わったということなのか。

へうげものを見ても、まあ、領土や金の変わりに、茶碗や茶道具を褒美として取らせる風潮は、信長時代からあった。

領土にも、金にも限りがある。

茶碗などにも同じ付加価値をつけられれば、褒美を上げられる人が沢山増えて、武人の士気も上がるというもの。

あの、物に固執する傾向の人達の集まりなどの表現も、実に上手く描かれていて(絵はむしろ、下手という感じだけど)毎週楽しみにしている番組である。

おじゃら流の話に戻れば、夏なので、アイス抹茶でもと思い、ヒマなので、カエル型に立ててみる。

アタシは、最初のセンセイが裏だったことや、知人のほとんどが裏のため、思い切りあわ立てる傾向だった。

そこを抑えて、カエル型に点てるという練習をしたということになる。

ギャラリーに来る人は、ほとんどが顔なじみ。正確には、ギャラリーを開いてから、ギャラリーをときどき訪ねてくるという関係が正しいんだけどね。

アタシが、IH茶人になったというのは、みんな、ウスウス知っている。それが、今度、家元になった。などと話すと、ゲラゲラと笑い始める。

そんでもって、実際、カエル型に点てた茶を出したりすると、また、場が盛り上がる。

茶の時間というのは、本来、楽しいものなのである。

どの人も、カエル型に点てられた茶に見入り、

「ホントにカエル型なんだね」などと、各々の感想を述べる。

オジャラ「まあね、流派を立ち上げたんだからさ、当然、そういうことになるでしょ。表でも、裏でもないんだからさ」

客人「ふーん。そりゃスゲー。ワハハ。言った者勝ちだよね」

オジャラ「そーよ。コンテンポラリーアーティストなんだから、これぐらいの驚きを持って、楽しい時間を思い出に刻むっていうのがさ、正しいでしょ。」

客人「それで、これ、どうやって飲むの?」

オジャラ「ああ、ウチのは、回さなくていいの。なるべく、カエルを壊さないように飲んでね」

というメチャクチャ具合。

そうして、みんなして、なぜか、楽しい気分に包まれるのだ。

楽しさというのは、お金では買えない。

主が、客人を、それぞれの趣向で迎え、客人を楽しませること。

それそのものが、茶の本質であり、茶人の資質なのだ。

利休も、そのことを残したかったのだと思う。

ところがね、ビジネスモデルは、そうであってはならないのよ。

収益構造をどう備え、しかも、会として後世に残すのか。

まあ、そういう話である。

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