◆◆◆ 1617 ★ 否定の中から生まれるもの  ◆◆◆

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インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送(あとはいつでも見れますよん)

2011.535

性格というのは、替える事が出来る。

対人というのは、技術である。

多くの人は、自分の性格を変えることは不可能だと思っているようだ。

であるからして、自分に才能がない人ほど、嫌、その人に優れた才能がある場合であっても、自分を変えようとは思わず、考えの違う人を否定し、自分が優位に立とうとする場合が多い。

今度は、否定された側が、傷ついたり、病気になったりしてしまう。笑。世の中は、そんな話が支配しているのだ。

そういう日常の中で、そういう人たちを見かけたときに、どう考えるのかという客観性を持つことが出来れば、こちらの精神的負担を大分軽くすることが出来る。

そういう話になる。

一人で生きている人は、特に問題が大きくなる。

諭してくれる家族がいないので、自分の正当性を押し付け、前に進もうとし、あちらこちらで衝突してしまうようになるのである。

そうすると、人間関係は、何かあるたびに悪くなる。

今度は、孤独感から精神が不安定になり、益々、自分を正当化するために、人を否定する傾向が高まってくる。

こういった人を見かけると、ホントウについていないなと内心思う。

否定という作業は、物凄い「不」のエネルギーを伴うもので、それは、自分の精神を痛めつけていることと同じだからである。

認められたいという自己顕示欲と、認められない現実というものの間に立ち、他を否定し続けることだけで、自己肯定をしているケースである。

こういう人は、どこにでもいる。

いつでも人の悪口をいい、自分の正しさを、私に訴えてくるのだ。

全く知らない人の悪口を聞かされても、気分が悪くなるだけだよ。

私の場合、性格が良い上に、頑張っているので、皆が応援してくれる。

そうすると、そのことに腹を立てて、今度は、私を激しく否定して歩く人が出現してしまう。

例えば、こんなことがあった。

夫に殴られたと言い、警察沙汰となった女を、何日か保護したことがあった。

お酒の好きな人だったので、私は、画廊の宿泊利用に関し、3つのことをお願いした。

男は連れ込まない、タバコは吸わない、ギャラリーで宴会をしない。

この三つだ。

DVで身一つで出てきたことを知っていたので、小銭もギャラリーに置いていた。

ところがである。彼女は、私との全ての約束を破り、挙句の果てに、アタシが、裁判所などに行く交通費としておいてあげていた釣銭も飲み代に使ってしまう。

近所の飲み屋のママからも、彼女の品の悪さ(男と同伴で別な場所に移動したりすることなど)への苦情がきてしまう。

シェルターで何ヶ月か過ごすことに決まったので、私は、画廊に出入りできないように鍵を閉めてしまい、彼女を追い出すことにした。

その後、彼女は、パトロンでも見つけたのか、千住界隈にまた出現しはじめ、今度は、オジャラが意地悪で、自分が窮地に追い込まれたという話をして歩いているのである。(たぶん、今も)

何も言わないでいると、アタシが一方的に悪くなっていて、そのことに驚かされる。

この件についての感想はといえば、

私は、彼女には、ホントウに悪いことをしたと思っている。

それは、アタシが彼女を締め出したことではなく、(行い悪く、感謝のない彼女を追い出すことは、物件所有者として当然である)激しいそう状態にかかっていることがわかっていたのに、病院に連れて行かなかったという一点である。

家族と相談し、病院に行くよう進めるべきだった。

彼女の周囲では、私は、未だ、一方的に悪者であり、彼女は、私の悪口を、いまだに言って回っているという確信すらある。

しかたがない。病気なのだから。

世の中には、イロイロな価値観が存在するのだ。

その、多様な価値を受け入れられないということ、それは、すなわち、アートについても同じ話である。

「これは、何だかよく解らない」

「現代美術は、よく解らないことが多いので、見ない」

まあ、この程度ならいい。

「あんなの、芸術じゃない。作品ではない。」

などと、全てを否定するような人には、永遠に理解できる日も来ないのだ。

足立美術協会の木村先生が、アタシに話してくれた作品の話のことをまた思い出した。

「おじゃらさんね、芸大の学生がさ、テーブルを全部逆さにしてさ、それを作品だって言うんだよ。本当に、そんなの、全く作品じゃないよね。芸術とは、そういうもんじゃないんだよ」

とアタシに訴えかけるのだ。

本人が、自分はコンテンポラリーアーティストだと名乗っているのにである。

自分で作品を作っているのに、他の作品を受け入れられないと、どうなるのか。

まあ、否定して歩くという話になる。

そうして、そのテーブルの作品のことを頭に思い浮かべ、アタシは、それが、コンテンポラリー作品だってことが、ハッキリと理解できているのである。アタシには、その自由さが受け入れられ、その作品の価値はともかく、はははと笑い、そのテーブルの作家さんと話がしたいというキモチである。

だけど、木村先生に、いちいち説明したりはしないのだ。

そんなことすると、今度は、アタシが嫌われてしまう。

作品というのは、自分で理解できていない域については、作ることもできないに決まっている。

そういう意味で、私は自由だし、芸術自由に関して、こんなに短い間に理解が進んだことに、ホントウに感謝している。

他から学び、前に進むことが出来る。それこそが、芸術家に求められている、たった一つの才能である。

おじゃら画廊

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