◆◆◆ 1758 ★ 信仰の形 ◆◆◆
インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送(あとはいつでも見れますよん)
2013.5.20. 私は、バリ島に住んでいたときに、自分は仏教徒だということに気づく。 正確には、バリ島で住んでいたときには、宗教というものが、生活の中で重要なポジションだったため、無視することはできなかったというのが正しい。 どう重要だったかといえば、免許や銀行口座を開くときに、宗教を書く欄があること。 自分の宗教を表しなければ、免許が取れないということである。 いやまあ、ブランクでもヨカッタのかもしれないけど、逆に怖がられる。 信仰を持たない人の方がタブー視されるお国柄であった。 それは、文化とか、生活習慣とかいうものだと思う。 |
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たとえば、名前を聞くだけで、その人の宗教まで解るという具体的な社会構造。 無益な争いを、事前に防ぐための、もっとも優れたシステムだと関心した。 インドネシアそのものは、イスラム教が中心だが、バリ島だけは、バリヒンズーという独自のヒンズーワールドがあり、八百万の神様状態。 そういった中で、キリスト教は、あちらこちらの島のハジッコで頑張っている。 そういう環境の中では、宗教が原因の対立や殺し合いなどもあるらしく、それぞれは、日常生活の中では、なるべく、そういった違いについて触れないようにして生きている。 というのが、私が体感したバリ島ライフである。 ところが、日本人のわれわれの名前は、聞いてもどの宗教か解らない。 だから、名前を名乗ると、次に、宗教を聞かれることも多かった。 そうして、「ブッダ」と言うと、先方は、血みどろ対立宗教の一つではないため、安堵の表情を見せるのだった。(本当) ブッダは、インドネシアではアンパイ宗教ということになる。 |
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同じ国なのに、ここまで、宗教の違いが生活に影響しているというのにはおどろいた。 そうして、朝早くから、夕方にわたるまで、神様のために生きているようなライフワークのバリ人は、「お祈りの数では、イスラム教徒に負けている(のが悔しい)」 みたいな話を真顔でしてくるのである。 内心は、どの宗派の方も、お祈りの数を1回減らし、収益が得られる労働に切り替えたら、この国のGDPはきっと多少よくなるに違いないと思いながら、 「あら、一日に4回お祈りするのだって、立派で素晴らしいことだわ。仏教徒は年に一回よ。」 などと、相手を慮った相槌を打つのだった。 と言う理由から、自分は仏教徒だという発言が増えたのに、仏教が何かよくわからなかったので、確か、少し調べたんだと思う。 おおぐくりな理解をここに書くと 「お坊様だったかな、仏様だったかな、は、今あるあらゆる苦難を無くし、平和で豊かな世とするため、難しい修行して、どんな人でも、信じていなくても、誰でも救ってくれる。」 のだという。 信じていなくても、あらゆる人を救ってくれる。 というのが教えの根本である。(という理解を私はしている→おおざっぱでごめんなさい) なんか、物凄く科学的な思想であり、本来は、仏像とか、経典とかが信仰の対象ではなくて、それは今でもそうなはずなんだけど。 まあ、神社仏閣に行き、仏像などに手を併せて、お金を箱に入れるというビジネスモデルはすごいなというのが個人的な感想。 でもまあ、あらゆる人を救うという思想はすごいよね。 |
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その信仰を信じていない人でも救ってくれるという観念は、仏教だけである。 あまりの精神の高さに私は、今後は、仏教徒だと誇りをもって言おうということに決める。 うちの祖父は、信心深い男だった。 何百体もある水子地蔵様が並んでいる場所に一緒に行ったことがあった。祖父は、一体一体のために、一円玉を用意していて、二人で、地蔵様にお金を置いていった。 幼い頃の話で、祖父が子を亡くしたことがあったと知ったのは、ずっと後だった。 私は、すれ違った修行僧様には、ささやかに鉢の子(手に持っている茶碗)に、100円ぐらいのお布施を入れることにしている。 そうして、20秒ほどお坊様の前で手を合わせる。 最近では、ニセかどうかもすぐ解るわ。おほほ。 でも、相手が、ニセでもいいの。 その人のためにしているわけではないからである。 そんな格好をして、お金をもらわなければならないほど、困っているのだし、鉢の子にお布施を入れてくれる人など、何人もいないことを知っているからである。 |
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