◆◆◆ 1730 ★ 川端龍子の美術館 ◆◆◆

インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送(あとはいつでも見れますよん)

2013.3.10.

川端龍子(かわばたりゅうし)の美術館が大田区にあるのだと知る。

行かなくちゃ。

彼は、新しい日本画を目指し、自ら画壇を作り、大作に挑み続けた。

しかも、その大作連は、自分の敷地の隣に、美術館を作り区に寄贈。

気絶しそうだった。

それにしても、あの力のある絵というのにも驚く。金閣寺が燃えている炎の描写も素晴らしい。

日本を中心に、諸外国の民族的な絵も描いている。

圧倒的な画力と、その自由さは現在でも普遍的なものがあり、絵に引き込まれた。

絵を沢山見ているので、ちょっとやそっとのことでは、心は動かされない。

伸びやかな線とダイナミックな画風をうらやましく思い、あのような大きい絵をいくつも描けたらいいのになとため息。

一枚を手がけたら、もう、次の絵が描けないという環境なので、どうにも前に進めない。

画題も当時としては独創的だったと思う。

戦闘機を半透明にして、外国の風景の中を飛んでいる絵も良かった。

日本画とは思えない表現の幅である。

イロイロな人の絵を見るが、絵を見れば、その絵が苦しんで描いているのか、描く事に満たされているのかまで解る。

それは、趣味で描いているとか、画家を目指して描いているとか、画家として絵を売りながら描いているということとは関係がない。

絵がどんなに上手くても、表現とは何かを知る機会がなければ、絵というのは良くならない。

それは、例えば、こちらが教えてあげたからといって、描く方が理解が出来るかどうかという、受け入れる資質もあるのである。

ぶっちゃけ、余計な話をすると、自分の絵に慢心している人は、怒り出したり、不愉快だと、ネットに書いたりもする。笑。

自分の絵の悪さには、自分で気がつく時が来るまでは、その次のステップには、永遠に進まないのである。

逆に、龍子は、自らが平面表現というものの本質を理解したから、見る者を圧倒するような数々の傑作を残せたということになる。

画題というのは、重要なのである。

それは、絵というのは、良ければ何百年も先にも残ってしまう可能性があるからである。

陶器は、たとえば壊れたとしても陶片となり、燃え尽きることもなく、土中にて残ってしまうという恐ろしい創作である。

それに比べて、絵というのものは、耐久性が低いなと思ったりもする。

でもまあ、用の美から離れると器ではなくなってしまうので、そういった自由度というのは、平面や、3Dの方があるんだろうとも思う。

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