◆◆◆ 1612 ★ 岡本太郎展-2  ◆◆◆

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インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送(あとはいつでも見れますよん)

2011.4.29

「絵は、上手くあってはならない、美しくてはいけない、心地よくてはいけない」

という、太郎の芸術論に対し、私は、やはり、絵というのは、鑑賞に堪えられなくてはならないという意見を持つ。

大衆を巻き込むことが出来なければ、爆発的に売れるということもないのだ。

共感による知名度がある程度上げられなければ、芸術品に昇華されることもない。

中盤頃の、彼の油彩は、力の入っているものが多かったと思う。

晩年の、メダマの部屋に入り、彼の作品の価値が、知名度程上がらなかったのも納得できた。

あの絵は、飾れない。

そう、怨念のようなものは感じるし、確かに、美しくもなく、上手くもない。

だが、心も動かない。

人の心を動かすというのは、簡単なことではないのだ。

まだ、完成していない作品も多数あるのではないかとも思う。

作家が死んでしまえば、遺族、管理するものは、完成・未完にかかわらず、作品を展示・現金化しようとするので、それまでの良い作品と並んだときに、晩年の作とか、未完のクオリティーの低い作品も作家作として混じることが普通で、それが、美術界を混乱させている。

画業というのは、人の心を動かし、サイフの口を開かせるということである。

業というのは、収益が得られるということに他ならず、もし、売れなくてもいいなどと考えるのであれば、その絵は、画家の絵ではないし、よくもならない。

そういうことになる。

彼の作った、ノベリティーグッズのクオリティは、最も高いなと感じた。

ギャラが良かったのか、それとも、太郎も、大衆ということが、意識できていたということになる。

私は、この筋の説明をするときに、(おどろおどろしい作風の作家さんも、画廊には沢山くる)

ニキッド・サンファールの図録を見せる。

「この、キモチワルイ作品が、カワイイ作品に昇華されたとき、彼女は、大衆を巻き込み、芸術家になったのよ。」

そう、キモチ悪い絵のままでは、歴史に残ることはない。

キッパリとそう思う。

ピカソの絵のことが良くわからないとか、太郎とピカソを比較する人が多い。

どの人も、アタシに、ピカソと太郎の話をごちゃ混ぜにして、意見を聞きたがる。

たとえば、どっちの作品が上かとか、そういう話をである。

現実的な芸術的価値(作品価格)から言っても、ピカソ圧勝である。

ピカソは、岡本太郎に影響を与えたかもしれないけど、岡本太郎は、ピカソに影響を与えたとは思えない。

それが、作家の格なのだ。

「あはは、確かに、明日の神話(渋谷にかけてある、原爆の絵)は、ゲルニカより大きいけどね」

アタシは、そう答える。

まあ、あの絵は、ゲルニカよりも、いいかなとも思う。

どちらの絵も、殺伐とした事実を抽象化・具象化し、その憤りや、行く場所のない国民感情を大作に仕立て、残したというところには価値を感じられる。

ピカソであっても、晩年は、キュビズムの絵(ベラスケスの絵をモチーフにした作品)などを繰り返し描いていたというから、そういう意味では、太郎と同じように、新しい絵というものが作れなくなっていったのかもしれないと思う。

新しい作品を作り続けるというのは、それは、ごく一部の人にしかできない偉業である。

そういうことになる。

私は、ミロの作品のことを思い出した。

あの自由さ、そして、新しさ、かわいらしさ、それでいて、よく解らないというコンテンポラリーの本質的な部分も持ち合わせている。

生涯、自分の画風を壊し続けるというのは、どんな苦行なんだろうか。

おじゃら画廊

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