◆◆◆ 1611 ★ 岡本太郎展 ◆◆◆
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2011.4.29 生誕100年を迎えた岡本太郎展が、近代美術館で開かれている。 テレビでも、いくつかの番組が流れ、私は、注意深くメモを取りながら、彼の生涯について学ぶ。 「絵は、上手くあってはならない、美しくてはいけない、心地よくてはいけない」 というのが、彼の芸術論である。 アタシも、最近、芸術に対する研究が進み、彼の言葉を鵜呑みにしたりはしない。 芸術性というのは、作家が個々に目指すべき場所を見出し、そこに向かい、進む、作品という軌跡のことである。 「作家が個々に目指すべき場所を見出す」 というのが、キーワード。 その道を見つけられない人ばかりである。 そういう意味では、太郎は、太郎の芸術性を貫いたという部分で、芸術家だったといえる。 |
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近代美術館では、人間より少し大きいオブジェたちが、入り口を彩り、ワっというムードで迎えてくれた。 才能が感じられた。 私は、一つ一つのオブジェを楽しみながら、その自由さを堪能。 作品というのは、自由でなければならない。 私の、今の芸術性という方向は、 「自由」 ということになり、どれだけ、具体的なものから離れるのかという挑戦が、作品作りということになり、できあがったものが自由であるというところが、評価のポイントということになる。 芸術論というのは、人に押し付けることではない。 個々の道でなければならない。 そういうことになる。 |
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たとえば、印象派の画家たちであっても、シュルリアリスト達であっても、一度は、同じような考えだと思い、集まるが、ほとんどが決裂し、自分の道を進むことになる。 それは、当然の結果だと思う。 俳句だって、音楽家だって同じなのだ。 表現というのは、創作者の資質と才能によって変わってしまう。 名を残した画家の全てが、自分の道の軌跡を描いた人物であり、例外はない。 リーダーシップをとるものが、追随する者の作品をネジ曲げるのか、自由度を尊重するのかという、性格によっても、会の道は変わってくる。 イラストの協会に関していえば、全くの自由であり、私は、そのことに感謝してもしきれない。 人の感性など、自分の意見に屈せさそうという輩ばかりである。 私は、いけばな教室のことを思い出した。 まず、皆に同じ材料を渡し、花を活けさせる。 それを、先生が、一本残らず全部抜いて、活けなおすという流派がある。 アタシは、その話を聞いて、いけばなは、アタシには向かないと、ピンときた。そんな屈辱的な話に耐えられるのは、凡人以外にはありえない。 当時は、それぐらいの認識しかなかったが、もちろん、華道の展覧会に行けば、その自由さには驚かされる。 華道であっても、自由への挑戦であるという部分では芸術と同じなのだ。 |
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書道しかり。 先生のお手本を模させる。 その繰り返し。 だけど、実際の書の展覧会というのは、ホントウに自由なのだ。 臨書(お手本とそっくりに書き写す技術)というのをどれだけやったのかというのは、自由度につながってくる。 そういう理由から、私も、ひたすらドローイングを繰り返すのだけど、昔の絵の方が、ずっと自由だったと気づくと、自分はどうなるのか不安になる。 |
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