◆◆◆ 1556 ★ 生きがいとは何か  ◆◆◆

2010.6.23. 更新

生きがいっていうのは、なかなか見つからない。

知人のお孫さんが、オーストラリアから来ることになり、アタシが手紙を通訳したり、イーメールを受け取ったりしてあげている。

口では面倒だとか、お金が出て行って大変だという話をしているのだが、頭の中は、7月の彼女たちの来日のことで頭がイッパイなのである。

「もうアタシも長くないと思うから、(孫たちに会うのは)もう、最後かもしれないから」

80歳になり、もの忘れや、アタマの混乱が多くなったと彼女は話す。

アタシは、日本語に訳した手紙を彼女に手渡すと、何度も何度も繰り返し読んでいるのだと話してくれた。

以前にも、オーストラリアのおばあちゃんからの手紙を翻訳したことがあった。

実に泣ける話だった。

アタシは、(私信という)人の人生を垣間見てしまったことを申し訳なく思い、そうして、年を取るということを少し学んだ気がした。

アタシが日本語で書き直した手紙を、彼女はたぶん、何度も読み返し、国境に関係なく、老いや孤独について、共感を持てたと思う。

孫が来日するという、何年かに一度の大イベントに、彼女は、孫たちから頼まれてもいないのに、ホテルを予約しに行ったり、墓参りの準備をしたりしているのだ。

オジャラ「孫たちは、ホテル代の分、お小遣いが欲しいんじゃないかしらね。日本はイロイロ値段が高いしさ、友達の家に泊まるっていってるし、お金がもったいないよ。」

外人の経済感覚は、多少はわかっているアタシは、一応、そう助言したのだが、彼女は、そういうことを聞き入れる精神状態でもなく、何度もホテルに足を運んで、キャンセル料や、利用時間について聞いたりしているようだった。

まあいい。

生きがいというのは、そういうものである。

ギャラリーには、ご高齢の方も何人も来るのだが、どの人も、明らかに、自分の思いつきを押し付けることで自分の存在を受け入れてもらおうという傾向が強くなる。

わずかな年金を使ったりしてである。

ここからは別のおばあちゃんの話。

七夕飾りの件についても、少し考えれば、アートギャラリーに七夕は困ると、フツーに理解できるが、もう、そういう余裕がなくなってしまうのだと思う。

勝手に手土産を持ってきて、「あの人は、こちらが何をあげても、お返しをしない」

と文句まで言われてしまうんだからね。

オジャラ「アタシはね、今、お金がないからね、ここを営業するのに精一杯なの。だから、何ももって来ないでね。何かをもらっても、お返しはできないからね。」

そういっても、勝手に持ってきて、「100円でもいいから、何か返さなきゃダメだ」

といわれたときには驚いた。

そういう、自分の思いだけが、勝手に進んでしまう傾向は、一人に見られる話ではない。

自分の(家族や若い人、知人などへの期待が勝手に高まって)、勝手にモノを買って、勝手に渡して、勝手に傷ついている。

女性でも働いていた人は、特にそういう傾向が強い。何でも、モノを渡して、解決しようみたいな部分がである。

資本主義的な解決方法といえなくもないが、根本的な解決にはつながらない。

人に、買ったものをあげる。こちらも、(全く不必要なものを)もらう。

そういうやりとりが、無限に繰り返されるということになる。

まあ、経済活動にはつながっている。

それは、生きがいではない。

生きがいを履き違えてはいけない。

何かを買って、だれかに渡す。

そういう話が、自分が必要とされている、感謝されているということに摩り替わっているのだと思う。

悪循環だよなあ。

まあいいかぁ。

人の人生には、どのみち踏み込むこともできないし、変えることもできないのだ。

人の役に立っているという事実。それが生きがいにつながるとアタシは思っている。

買い物依存症の彼女には、ボランティアをすすめてみたが、やろうという気は、彼女にはないのだという。「何か、もう一度、商売をしたい」のだそうだ。

75歳だけどね。

それはそれで、スゴイなと思う。

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