◆◆◆ 1550 ★ テレビ番組を見る ◆◆◆
2010.6.2. 更新 マネの番組を見る。 印象派の人は絵がヘタクソだという話を、誰かがテレビでしていて、ウチのオットは、印象派の絵を見るたびに罵倒するようになった。 まあ、あれはあれで、当時としては新しい表現だった。 特に、神話や宗教に置き換えて、日ごろの欲求不満(女性の裸体など)を正統に絵画として展示してきたことを思えば、本音のところは同じである。 最初に問題を投げかけたというところで、歴史に名を残したということになる。 そうして、あの罵倒のされようは、オシオッサさんの作品のようだと、アタシはニヤニヤしながら彼女の作品も世に出る日がくるのかもしれないと思ったりもする。 仕事にしたって同じ話なのだ。 何かをしようとすると、抵抗するグループというのは必ず出現する。何故そんなことが起きるのか。 人は、変化を求めないという体質がある。 特に、江戸時代という時代に、日本人は、変化を好まないという遺伝子がつちかわれてしまう。 今までと違うことをすると、(政治が乱れるので)腹を切って責任を取る。 という恐ろしい時代であった。 |
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身分の差が無いというのは、今でこそ当たり前だが、坂本龍馬のドラマを見ると、ああ、下士は犬ネコ以下なのか。 的な扱いに憤りを越えた驚きを感じないわけにはゆかない。 身分格差がなくなったいまでも、人は、自分の方が優れていると思いがちな思考を持って生きている。それは、全世界的に共通していると思う。 自分の民族は、他の民族よりも優れていると、勝手に思い込んでいるのだ。 いやまあ、それでいいんだけどさ。 そうしないと、前に進めない。 情報の質の変化からなのか、何の結果も出していないのに、自分は何でもできるという思い上がった人に沢山出会う。 まあいいかぁ。 幸せというのは人それぞれなのだ。 人を否定することでしか、自己確立をできないというジャンルの人も沢山存在する。 他を否定することそのものが、すでに自己否定なんだけどね。 そういう人は、付き合うのが面倒くさい。 カンタンに傷つき、やる気を無くし、負のスパイラルに巻き込まれてゆく。 救えるのは、自分の気持ちを持ち直すことと、現実や自分の能力を受け入れる力である。 |
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印象派の人々というのは、最初は仲がヨカッタ。 マネやドガのように、社会風刺であるとか、世の裏側的な現実をつきつける、問題提起型絵画というのは、確かに新しかった。 解説がないと、深読みできないという別な事情もある。 かといって、あらゆる絵がそうなっていくワケでもない。 ルノアールは、どちらかといえば、美人画的ジャンルに進んだと思うし、セザンヌは、平面の新しい表現(キュビズムの種、半抽象みたいな話)を追求した。 時代が進むと、ピカソやミロみたいな独自の表現を手に入れられる画家も出てくるようになる。 そういう時代だったということだ。 印象派の画家の絵と生涯、人間関係などを学ぶだけでも、絵画とは何か。創作とは何かということを掘り下げることができると思う。 今更ね。という人だって沢山いる。 アタシやアタシのアート知人でさえ、「印象派はもう卒業」 という話になる。笑。 ただ、テレビ番組や、有名な絵画(日本に来たときには拝みにいく)を見れば、またそこから学ばされる。 似たような話の蒸し返しだと思っても、自分の進むべき道の整理というのはできるものなのだ。 |
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美術番組の作りとして、現代系の作品の解説は、未だ弱いよなあと思う。 何故、現代芸術の理解が進まないのか。 作家は増えてきていると思うし、若い美大生の作品にも、そういった結果は、顕著に現れるようになっている。 でも、見るほうのノウミソが、まだ、現代芸術を受け入れていない。 そう思うことは多い。 オシオッサさんの作品を見ると、ほとんどがゴミ(廃材利用)のため、売るのは難しいと感じる。 かといって、銀座の画廊にだって、ゴミで、手の混んだ美術品を作りこんで販売している作家さんを見ることもある。 クオリティの違いということだけとも思えない。 最近は、そういうことを考えるのも面倒くさい。 少し、雑務が忙しすぎるんだよなあ。 |
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