◆◆◆ 1541 ★ 全治二週間  ◆◆◆

2010.5.25. 更新

にゃんこを散歩させていると、黒い意地悪な猫と鉢合わせになってしまう。

アタシは、にゃんこを家に入れようとし、黒と見詰め合っていた。

油断したときに、猫に飛びつかれ、太ももに爪あとを4箇所残されてしまう。

(一回飛びつかれただけだったけど、痛かった)

血がダラダラと流れる。

やられたよ。

バンドエイドを2重にしたのだが、止血していなかったみたいで、朝起きたらシーツが血だらけで気絶しそうになった。

昔、ミスターポワロ(外国のサスペンス映画)かなんかで、猫の膿を使った殺人の話を思い出していた。

猫の爪やなにかには、ばい菌大量という話。

こんな小さな傷で、足を切断ということになってもつまらないので、抗生物質をもらいに、病院に行くことにした。

ああ、バリ島で、ミシンで指を縫ったとき以来かしらぁ。

この日のドクターは、インターンに違いない的な若さ。

思いの他イケメンだったので、アタシは、また病院に行きそうになってしまう。笑。

患部に触りもしなかったからね。

やる気の無さは、なんとなく理解できた。

ドクター「明日とか、あさってなどに、傷口をもう一度見せにきてくださいね。クスリが合っているかどうか確認しますから」

などと言われたが、当然に行かなかった。

傷口は、内出血のため、何日かすると紫や黄色になり、撮影しておくんだったよと後悔しきり。

はぁ。

自分の太ももの傷を、何枚も作品として見せられるのも、みなさんうんざりだろう。

人間の体というのも、イロイロな色を発するものだと関心したり、人体の傷口ばかりを撮影し、画集にして有名になった女流写真家のことを思い出したりもした。

芸術家の進むべき方向性というものは、全く持って、未知である。ただ、誰もやったことがない世界を切り開いたということに着目すれば、その作品群には、芸術的な価値があると評価する人も存在するということは理解できる。

「藝術とは何か」

作家には作家なりの理解はあると思う。

ただ、世に出しているのは、画廊であったり、美術館であったり、評論家というジャンルの人たちであったりもする。

作家そのものが、藝術を訴えたところで、誰も見向きもしない。

ところが、評論家なる人々、学芸なる人々が語れば、別な意味を持ってくる。、、、、、、

場合もある。

その評論をした人が、誰なのかにもよるよなあ。笑。

企画画廊での個展ともなれば、初日にはパーティーが開かれ、評論家なるセンセイ方も何人かは来るらしい。

そういう人が、美術雑誌になんらかの記事を書いて紹介してくれれば、その展覧会には人が大量にきて、作品も売れたりもするらしい。

よく分からないけど、まあ、仕込みってことだって無いワケじゃないと思うよ。

そりゃあ、1週間で、レンタル費用40万円も作家が支払うんだから、評論家にその一部を支払って、メディアに露出を試みようというやり手の美術商だって、存在しないわけではない。

でもまあ、そういう、仕組まれた世界なのか、そうでないのかというのは、作品を見れば分かってしまうものなのだ。

別に、評論などを読まなくたって、アタシは、心が動かされたとすれば、そういう話を日記に勝手に書くわけで、買える値段なら、買っているということになる。

ただ、なんらかの投資をしようとする決断に、そういう情報が必要な人は多いということのよう。

そんなことだから、作家が育たないんだと内心思わないわけでもないし、ビジネスなのだとすれば、悪いビジネスモデルではない。

自分が世に出られるという期待があるからこそ、大枚を支払おうという結果につながるわけで、希望というのは、はかなく切ないものなのだ。

おじゃら画廊

Established 1998 Rica's Bar WEB SITE & Since 2003 Atelier Ojara.
Copyright (C) All Rights Reserved by Rica Ojara.