◆◆◆ 1538 ★ コンテンポラリーアートの伝道 ◆◆◆
2010.5.25. 更新 最近思うことは オジャラ画廊は、コンテンポラリーアートの伝道所だということである。 よく分からないままにスタートした画廊であったが、今度の7月で3年目になる。 頑張ったと思う。 そういう話を、このギャラリーというか、なんちゃってカフェでする。アート好きが集まって、アートの話で盛り上がる。 たぶん、そういう方向に向かうのだと思う。 今度、水道屋さんに、男性用の小便器もらおう。うん。 入り口に展示してやるぜ。 R.MUTTと、アタシが書き入れるわ。 ・・・・。入り口はやめよう。 飲み屋街なので、酔っ払いの皆さん、そちらで用を足すこと間違いなし。汗。 あ゛あ゛、想像するだけで気分が悪くなる。 どこに置くかなあ。 店内は嫌だけどなあ。 |
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不毛なるコンテンポラリー作品は増殖中。 日記に載せるほどのこともない。 というか、撮影が難しいというか、説明をどうするのかとか、結局、理解は得られないだろうという確信もある。 だから、あえて、説明もすべきでないし、おおっぴらにする必要もないというかね。 発表の仕方というのは、もっとよく考えなければならならいということになる。 同じアートを創作している人の中にも、コンテンポラリー作家だと名乗っている人でさえ、アタシや門脇さんが作っている作品郡を受け入れることができないという人も沢山いるのだ。 否定の中からは何も生まれない。 何故、アタシが、この作品を恒久的に残すべきだと考えたのかというところに、考えを及ばせれば、そんなに否定的な気持ちにはならないんじゃないかと思いながら、まあ、折り合うことも無ければ、折り合う必要もないのだと思うことにする。 別に、ほめてもらうために作っているということでもない。 作品は勝手にでき、意味を持つ。 それがコンテンポラリーというものだ。 |
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え? 「この作品には意味がない」じゃなかったわけ? いやまあ、そういう作品も多い。笑。 どっちなのかしらね。 見る人には意味があるものも出てくると思う。 作家の創作意思など、記録が残されていなければ、誰にも未来永劫分かる日は来ないのだ。 それでも、その作品が残っているということには、意味がある。 誰かが、その作品に意味を見出し、大切にしたという実態があるということに他ならない。 だいたい、「作品には意味がなければならない。」という考えそのものが、もう、遅れている。 |
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そういう、アート、創作、画業、あらゆる枠から自由になる。 そういう自由さが、作品の中に現れているのか。 そこがキーワードになる。 目の肥えた人は、そこに気づく。 そういうことになる。 アタシと、ポストカードコンテストのNさんの会話が、あまりにも上から目線だったので、どうしてそんなに高いところにいられるのかという質問があった。 高いところから見ているということではない。 高い品物も沢山見ているということになる。 オークション会場で、何億円という作品だって目の当たりにしているし、日の当たらない作品、値崩れしてしまった昔の芸術品というのだって知っている。 何が金になり、どういう絵が稼ぐのか。 それと、それ以外。 そういう情報を大量に持っているという違いだと思う。 先日も、図録頂きました。平山郁夫とか、東山かいいとか、今まで欲しかったけど買えなかった一流の美術品の図録を眺めては、こういう一流所の作品を一枚も見たことの無い若い作家さんが沢山いることを思い出す。 |
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