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2010.2.15 更新

絶望の淵。

当然のことだけど、アタシのことではない。

以前にも、同じような質問を受けたことがあった。

「学校って楽しいですか?」

アタシには楽しい時間だったと答えたが、問うた人は、その答えにさえ、傷ついているようだった。

似たような質問を受ける。

「生きていて楽しいですか?」

そうだよなあ。

アタシは楽しいけどなあ。

まだ死にたくはない。

でも、明日死んだとしても後悔はしないだろう。

するかなあ。

もっと描いておけばヨカッタと思うかなあ。どうかなあ。

ぶっちゃけ、寿命というのは、自分では選べない。

神様から(天国に)召されるという表現もあれば、三途の川を渡るという表現もある。

運命という言葉もあれば、生まれ変わるという表現もある。

死のうとしたとしても、生き残る人もいる。生きたくても、死んでしまう人もいる。

死期というのは自分では選べないというのが正しい。

自分では選べないのであれば、生きている時間は、充実したものの連続でありたい。

それが、アタシの生きる指針のようなものだ。

絶望から前に進むために、何か助言はあるのか?

自分で乗り越えるしかない。

誰も助けてはくれない。

アタシに言えることはそれだけなのだ。

「アタシがあなたにしてあげられることは、ごく僅かだ」

アタシは、どの人にもそう伝える。

正確には、何もしてあげられることはない。

自分で乗り越えなければならない。

絶望の淵を自力で乗り越え希望の光を見ることができるのかどうか。

それは誰にも解らない。

だけれども、アタシが手を差し伸べたからといって、絶望の淵から乗り越えられるというものでもない。

その人自身が、自力で乗り越えるしかないよなあ。

それは、自分にしか描けない絵が、自分で描けるようになるのと同じ話である。

何故そうなったのかを考える。

甘やかしすぎだろう。

子供の小さなつまづきに、親が手を貸しすぎた。

そういう親とそだった子供が、大人になれば乗り越えなければならない淵を、乗り越えられないで問題になっている場合が多いと感じる。

成長のしようがないもんな。

子供が逆切れするようになって、今度は、親が脅される側に回るっていう例もあるんじゃないかと思う。

カウンセリングで問題が解決する域を超えてしまっているということだ。

家出を繰り返し、ネットカフェや、WEBで見つけた男の家を渡り歩いている少女達がいるのだという。

それはそれで、社会適応能力はつきそうだよね。笑。

問題があるのは、そういう行動もせず、引きこもっている人だろうなあ。社会経験が積めないもんね。

今日のドラマは、性同一障害の女性に対する殺人事件の話だった。イロイロ考えさせられた。

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