◆◆◆ 1290 ★ 郷土博物館に展示作品を見に行く ◆◆◆

 

2008.3.24.更新

今日は、郷土博物館を目指す。

亀有で下車。北口より八潮駅行きバスで、約20分という感じ。

バスの乗り方が解らない。

真ん中から乗り込むが、券のような品は、初乗りは不要らしい。

途中、料金が変わるところから、チケットを取り、チケットと一緒に支払いをするシステムみたい。

(帰りのバスで、チケット取り忘れて、10円余分に支払った)

10円余分っていうのがね。事務手数を考えたら、料金一律にすべきと思う。笑。

桜並木の道を、郷土博物館前で下車。

桜はたった一輪だけこぼれ咲いていて、得したような気になった。

中に入ると、子供たちの遊び場コーナーに、早速アタシの作品原画が展示されていて驚いた。

二階の端の方と伺っていたのだが、きっと、手前に出して下さったのだと思う。お心遣い、ありがとうございます。

そのあと、2階の、浮世絵のコレクションや、昭和時代の住居の模型なんかを見学。

一階に戻り、建部巣兆(たけべそうちょう)という俳人にまつわる展示を拝見。

千住連などという俳諧が存在し、結構活動をしていたという記録。

文字、読めないのがね。笑。

建部巣兆(たけべそうちょう)

 宝暦11(1761)年から文化11(1841)年。千住を代表する文人。化政期を代表する俳諧宗匠(はいかいそうしょう)の一人で、書画・俳画に優れた作品を数多く残しています。

千住を活動の拠点とした巣兆は、関屋の里に秋香庵(しゅうこうあん)を構えて、掃部宿(かもんじゅく)・河原町・橋戸町の人々を中心に構成された俳諧集団「千住連」を率いると同時に、自ら「倭絵師(やまとえし)」と称して多様な表現で書画もあらわしました。

などという説明。小林一茶などとも交流があったのだとか。

知らなかったよ。

俳句の話をさせてもらえば、俳句というのは、それ以外の文芸ジャンルとは、異なるカテゴリーである。

俳句か、俳句でないか。

どちらかということになる。

たとえば、短詩や、散文、川柳と俳句は違うということになる。

どう違うのかを理解することが、俳句を学ぶ、第一のポイントだ。

【五・七・五で作られて、季語が入っている。それを俳句という。】

というのが、まあ、一般的な認識ではある。

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が、それだけでは、俳句とは言い切れない。

概ね、そういう常識的なスタイルに当てはめ、句作をスタートする場合が多いだけで、別段、季語ではない、決められた御題(日用品とか、食品など)に沿って作る場合もある。

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俳句に於いて、もっとも重要なことは、直接的な表現を避けるという一言に尽きると思う。

正確に言えば、直接的な表現が入っているものは、俳句ではないということだ。

であるからして、

句を読めば、直接的な表現で詠まれている句は、習ったことのない人の、素人俳句だというのが、バレてしまう。というか、それは、俳句ではない。

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【おつきさま どうしてそんなに まあるいの オジャラ例題としての駄句】

月という、季語が入っていて、どうしてそんなに まあるいの

という、五・七・五で作られている。

だから、これが俳句だというのは、間違いだということになる。

月影の 長く伸びたり 千鳥足  オジャラ例題としての駄句

これだと、一度読んだだけでは、月が丸いか解らないと思うけど、影が長く伸びるっていう表現で、月が大きくて明るい、だから、満月に近いってことが解る。

泥酔し、千鳥足まで、くっきりと見えるって所に、笑いがある。

まあね、そういう、笑を含んでいるか。

”俳”が入っているのか。

”俳”が入っていないのか。

直接的な表現を避け、臨場感のある表現に向かっているのかどうか。

短い文字表現であっても、その瞬間の映像が、脳裏に浮かび上がる。

それが、俳句か、俳句でないかということである。

別段、アタシは、俳句について、どうこう言いたいわけでもないが、俳句だと名乗っている文を読むにつけ、選者でさえ、俳句のことが解っていないのだという問題にぶつかるのである。

現代の、俳句の乱れは、俳句界の脅威だと思う。

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