◆◆◆ 1272 ★ キモノの小物作り ◆◆◆

 

2008.1.29.更新

雑誌表紙イラストを、ちゃちゃっとやっつけ、日本イラストレーター協会の年鑑の編さん、及び、SEO対策やら、その他の改善作業も終わる。

ちょっとした頼まれごとがいくつかあり、それは、全部WEB関係なんだけどね、まあ、つつがなく終わる。

そうして、ギャラリーでは毎日、縫い物をしているのである。

一昨日、ハンコ屋のお兄さんのところでお茶を飲み、前にももらった、茶杓用の竹を2本もらってくる。

それを半分に裂いて8本にする。

そうして、カッターナイフで、茶杓にしたててゆく。

ちと先が細かったよなあ。

まあいいかぁ。

茶杓で茶の粉をすくうと、本当に適量がスプーンの上に乗るから不思議だよね。

しかも、それを一杯半というアバウトさ。

道具であれば、キッチリと必要量が測れるようにすべきだというのがアタシの考えだ。

(誰でもが同じ品質で茶を点てるため)それは、すりきり大匙一杯とか、小さじ2などという、そういう正確さを持つべきなのだ。

それを、あえて、茶杓一杯半入れるという観点がね、美意識なの。

道具は道具。それプラス、主の裁量が加えられ、茶が点てられるのである。

なるほどねえ。

シセ゜ンズ型帯、あらゆる人から不評

そうして、自分で作った茶椀に、茶の粉を振るって入れ、粗末な茶筅で泡立てる。

(冬は茶椀を少し温めます)

まだ、袱紗というのが未知なんだよね。

茶の本などを読むと、まず、袱紗の畳み方からマスターするんだよね。

イカれているよ。

そうしないと、キレイに茶が点てられないからだって。

茶の稽古に行くと、毎日袱紗の畳み方を何時間もやらされて、茶を点てるというのは、袱紗の練習をマスターしてからなのだそうだ。

アホくさ。

みんな、お菓子と一緒に、お茶が飲みたいんだよっ。

まあいい。

美しい所作を否定しているということではない。

茶道のセンセイの絶対的な権威は、袱紗タタミの速さで見せつけなければならない。

私の所に来る若いコたちにお茶を出すと、皆さん、作法が解らないとか、イロイロいいながら、楽しい時間になる。

結局は、アタシが塗った棗とか、茶椀をシゲシゲと眺めることになり、そういった話で、何分も過ぎている。

そういう、気取らない茶の場というので、アタシはいいんじゃないかと思う。

袱紗は、帯に挟みたいが、概ねはさめないシュチュエーションの上、キモノだったとしても割烹着なので、袱紗立てを陶芸作品で作ろうと思う。

そうしたら、盆茶(盆の上の小さな空間で、小さなお道具で茶を点てる楽しみ)のときにも、盆の上に、袱紗を置くことなく、その道具で立てることができるから、汚くないし、もっと、世界が広がると思う。

袱紗を帯に引っ掛けないと、前に進めないというのは、今の時代には合わない。

そうして、茶杓のように、単純な構造の品であっても、美しく作るというのは大変なことなのだと知ることが大切なのだ。

竹の性質だけでなく、こちらの性格も重要だ。

竹が気長に曲がりたい時期まで、待ち、耐えなければならない。

急げば折れてしまうし、何もしなければ、いつまでも曲がってはくれない。

曲がったとしても、また戻ってしまう。

思った所で曲がってくれたりはしない。

折角いい色に焼けた竹なのに、曲げようとしてあぶれば色がかわってしまうし、皮は、ぼんやりしているとキヅついてしまう。

そういう、一つ一つを乗り越えないと、茶杓は出来上がらないということを、一本作ろうとすれば、分かるわけで、作らない人には、一生未知なままなのだ。

茶を志すなら、茶杓の一本ぐらい、自分で作ったのでもてなしてみるべきだと思う。(嫌まあ、作ったことある人ばかりだと思うけど。笑)

アタシも、早く一本を作り上げ、それを使ってみたいものである。

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