◆◆◆ 1262 ★ 桂ゆきさんの番組 ◆◆◆

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2008.12.30.更新

桂ゆきさんの番組を見る。

評論家の針生一郎さんという方が出演されていて、彼女の作品を見て、

鬼が騒ぐ、

(現代アート作品の中で)ユーモアがあるというのは、非常に珍しい。

と話されていたのが印象的だった。

確かに、作品を見て、笑えることってそんなにないもんなあ。

前にも、別な評論家が、今井 繁三郎さんの作品について評論していたときにも、ユーモアについての言及があり、見るほうは、そこも重要な項目とし、チェックを入れているということは理解できる。

何故、描く方は、理解しないのだろう。

求められている絵と、絵の実態には差があるのだということになる。

いやまあ、どちらでもいい。

先達の作品の中から、何も学べないのであれば、その作家はそこまでである。

桂さんの作品は、アタシは有名作を見たことがあるような気になっているけど、テレビでだけかもしれない。

一目見て、(洋画なんだけど)コンテンポラリーだと思った。

アタシの現代美術に対する理解も随分進んできたのだと思った。

そうして、今井さんの絵もそうだけど、なかなかあんなに自由で、カワイイ作品にはならないよなと思ったり、最近、絵を描いてないよなと思ったりもする。

帯作りの方が忙しいからな。

帯を作っている時間というのは、それはそれで、物凄く贅沢なのだ。

誰に売るという目的でもなく、自分できるための服や小物を作り、身につけて歩くというのは、至福の時間である。

評論家のセンセイというのは、まだ、テレビでしか見たことが無い。

一体、どうやって生計を立てているのかというのが、最も気になるところである。

作品を作る人が作品について、何らかの話をすると、それは、批判ややっかみと思われるらしい。

画壇の入賞作を見れば、審査員の格まで解る。これは、画壇を批判しているということではない。会というのは、(アタシも入っているけれども)会の格を保つのが目的でもない。大事なのは、会を存続させるという一点であり、そのためには手段などない。

例えば、俳句の雑誌を読めば、その雑誌の編集方針やら、選句/直しをしてくださる先生の格まで解ってしまうのに似ている。

その事を云々言っているのではない。

絵の評価というのには、筋道があり、優れた評論家であれば、どの人が見ても、良い作品は、ヨイと評価されるということをアタシは言いたいのである。

評価の基準はハッキリとしており、ゆるぎない審美眼に司られているということになる。

最近は、

おじゃらさんの絵は全くいいと思わない。

という人だらけであり、まあ、それが素直な評価なのだと思う。

中には、物凄く目の肥えた人が入ってきて、「こういった絵は見たことが無い」と述べて帰ってゆく。

コンテンポラリー系の批評がシッカリできる人が、アタシの作品を見たら、そんなにガッカリしたりはしない作品になりつつあると思うんだけどね。

まあいい。

全くいいと思わないと云われていることだけは事実なのだから。

どうすることが、自分の作品にとって必要なのか。

個展の最中に、自分の絵に囲まれて、作品を眺める。

昔描いた絵はヘタクソだし、新しい絵は、進みすぎている。

絵は良くなっていると思うのだが、決定的な何かが不足しているのだ。

どちらにしたって、画廊すら見たことが無い人達に売るのであれば、もう少し時間がかかる。

目の肥えた人達にしてみれば、まだ足りないということなのだろう。

芽が出るまで、あとどれだけ描き続けられるのか、という、精神的な戦いってことなんだろう。

来年こそ、LA OJARAを出版するぜ。

まずは、そこがスタート地となるはずなのだ。

アマゾンよ待っていろ。

おじゃら画廊

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