◆◆◆ 1151 ★ カエル男爵 ◆◆◆
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2008.5.15.更新 |
カエル男爵にテコ入れする。 工事のときに出た、木材の廃材を利用した作品である。 大工さんがメモ書きに利用した木っ端材も利用。 大工さんとのコラボレーションである。 大工さんも、勝手に仏像などを彫り始めた。 満寿夫の般若心経の作品を思い出した。 大工さん「オジャラさん、見てくださいよ。大分うまくなったでしょう?」 オジャラ「頑張りましたねぇ」 彼は、作った作品を時々見せに来てくれる。 さすがに、20センチ以上の仏像を何体も作っているので、細かい布のヒダなども、美しく表現できるようになっていて驚かされた。 勝手に作り進むというのはスゴイと思う。 誰かに習うということよりも、ずっとハードルが高い。 |
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大工さん「もうそろそろ、雅号を作ろうと思いましてね、『昇龍』なんてどうでしょう」 オジャラ「創作というのはね、もっと、謙虚なものなんですよ。『下龍』ぐらいで丁度いいですよ」 大工さん、打ちのめされる。 オジャラ「あと500体ぐらい作ってからね」 という会話。 作品というのは、作ればヨイというものでもない。 ヨイ作品がどの辺りにあって、自分の作品とどの位差があるのかを知るということも、同時にしなければならない。 ヨイ作品とは何か。 根本というものは、それが、ヨイ家であっても、ヨイ城であっても、ヨイ絵であっても同じ場所にある。 |
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満寿夫の番組を最後まで見る。 般若心経のシリーズに、何故とりかかるようになったのかを知る。 ある出版者から、「今度は、般若心経にちなんだ作品を作って欲しい」などと依頼されたらしい。 と、その、写経の魅力に引き込まれたということになる。 満寿夫『無心になれるんですよね、無心で創作ができるんです』 写経が創作といえるのかは疑問だが、陶作品などに刻めば、それは、創作物である。 陶板の仏画も素晴らしかった。 きっかけというものは、きっかけに留まらない。 収集家のオババも、満寿夫は「更なる高みに入った」などと、絶賛。 それは、作品から湧き出てくるものでなくてはならない。 創作者という切り口から見れば、それは、新しいことにチャレンジし続けたのかという作品という結果の軌跡である。 |
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そうして、ウチの陶芸のセンセイが、満寿夫の作品はヘタクソだと話していたのを思い出す。 そうだよなあ。この書がヘタなのと同じである。 アタシは、この句を読むたびに、バリ島で、木の上から大蛇が間近に落ちてきたときのことを思い出す。 時には、車に引かれている。 捕まえた蛇をわざと公道に広げて、完全に死ぬまで、何度も車に引かせるのだと聞いた。 アチラの蛇は、子供ぐらい、食べちゃう感じだもんなあ。(本当) アタシも、書の至宝展に並べられた、ヘタクソな書の話をボロクソ日記に書いていたことを思い出した。 大切なことは、その作品が、美術館に並んでいるということである。 私の作品は、美術館には並んでいない。ヘタクソと見た目思える書は、美術館に掛けられている。 どこにどんな差があり、人は、美術館の作品を良しとし、私の作品はダメなのか。 納得のゆくまで、作品を見て歩いたり、解説などを見聞きし、自分が理解できなければ、その先も無い。 大切なことは、理解しようという気持ちがあるかないかである。 |
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