◆◆◆ 1143 ★ 山本容子の図録を見る ◆◆◆

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2008.5.7.更新

バリ島にいたときに、山本容子の大きな展覧会があり、母に頼んで図録を購入してもらった。

帰国してから一度見て、嫌まあ、そのときにはたいして感じるところもなかったのだと思う。

あのときには、まだ、絵の事は何も知らなかったし、芸術とは何かという話も、考えたことはなかった。

最近、ギャラリーの留守番の人に見せてあげようと思い、彼女の図録や、クレーやシャガールの図録を手元に積んでいた。

久しぶりに彼女の図録を開き、今まで気づかなかった細部にも目が届く。

彼女も、芸術とは何かが理解でき、ああいう作品になったのだという理解。

作品というのは、それほど正直で、作家の画業というのは、努力だけではないということになる。

あんなに沢山作ったのに、どれも山本容子でございますという顔をした作品たち。

「芸術家でございます」というような嫌味もなく、ラクダのように、安易でもない。

書店を私のギャラリーにしようという彼女のストラテジーは時間とともに機能しはじめ、あんなに分厚い作品集となったということになる。

正確に話せば、脳天を打ちのめされたような気分になり、呆然としたまま時間が過ぎたというのが正しい。

冒頭の、ナントカいう人が書いた、「創作者であるのであれば、芸術とは何かということの理解を無視することが出来ないはずだ」的な文章も気になった。

いやまあ、文が難しくて、あまり内容は理解できなかったけど、「芸術とは何かが解らなければ、作ることは不可能」という、物理的な問題には、アタシも前から気づいていた。

誰かが教えてくれるということは有り得ない。

それを教えてくれるのは、先達の作品だけである。

作品の中に表現された、芸術性を、見る側が理解できる域まで、こちらも育たなければならないということになる。

どちらにしたって、もう、その図録を見たくないという気持ちでイッパイになり、自分の力の無さというのが情けなかった。

でもまあ、アタシが画家を目指してからまだ10年も経っていないのだ。

こんなに短期間で、イロイロと学べたということは悪くなかったと思う。長年絵を描いていたって、芸術とは何かが理解できていない人ばかりである。

それは、作品を見るだけで解ってしまうわけで、目が肥えるというのは、舌が肥えるというのとおなじぐらい不幸なものである。

足立書道連盟展の50周年記念展というのが、マルイで開かれている。

アタシは、ゲロゲロ毛糸筆で書いた、「現」という書を出展。

大きく見えた作品も、大きな会場では小さく見えた。

ヘタクソで情けなくなる。

しかも、2万5000円も払ったというのが信じられない。

額代と、図録代込みなので、仕方の無い価格だと思う。

それだって、金がかかるからという理由で、洋画の公募にも出していないのに、売れることは有り得ない書道の展覧会になど、そんなに金をかけるべきではないのではないかという気になる。

裏打ちの方法を学んで、自分で額装できるようになったら、またチャレンジしたい。

どんなに頑張っても、書は売れることはないのである。

可能性があるとすれば、「書も書ける」という実態に基づき、メニュー書きや、和風のお店の看板になる程度が精一杯である。

今日は、朝、シスレーの番組を見る。

キュレーターが、「毎日見たい絵」と絶賛。

毎日見たい絵というコンセプトには驚かされる。

上手さが際立った、素晴らしい作品だと思った。

作られてからもう、100年は経っているはずなのに、キラキラとした画肌や空の表情は、まるで、今朝の清清しさなのだ。

ああいう絵の良さというのも、近々理解出来てくるのだと思うと、それはそれで、嬉しかった。

奈良さんも、番組で、「ずっと見続けていられる作品にならないといけない」と話されていたけど、シスレーの作品は、そういうのを超えている。

「自分が、自分が」という我の強さが出ずに、それでも自分のスタイルというのを守り、なおかつ、自宅の居間で毎日心を癒してくれる絵など、そんなには存在しないという話である。

マティスやピカソの絵だって、美術館であれば、それなりのオーラなのだろうが、自宅のリビングで、アタシの心を癒してくれるかどうかは解らない。

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