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2008.3.21.更新

こちらがコラージュ作品。

封筒や、ピザ屋のチラシなどに、どんどんとコラージュを進めている。

コラージュって、売れたことあったかなあ。

まあ、買う人は多少いるかもなあ。

素描よりは手が混んでるのに同じ値段だからな。笑。

手当たり次第、辺りにある品を貼り付けてゆく。

この作業は、途中でやめることが出来ない。

私は、いくつも作ってしまう。

大切なことは、私の作品だというものがでているかどうかである。

卑怯だとは思うが、アタシのドローイングや油彩、画廊のパンフレットを使った作品は、アタシが作った作品だというオーラのようなものに満ちている。

そんなにカンタンに手に入れられる材料ではないという理由からである。

もう一つは、別な白とか、半透明とか、和紙なんかを貼り付けて、そこに絵を描画するという作業である。

人物が入ると、それは、アタシのコラージュということがハッキリと出てくる。

が、クレーやミロの作品などを見るにつけ、そんな卑怯な手を使うなよと、内心、自分が情けなくなってくるのである。

あとは、パステルとかチラシの切り抜きなんかも貼り付けてゆく。

どんどんと貼り付け続けると、それなりに見られるようになってくるから不思議である。

作品を鑑賞に堪えられるまで上げることができるようになってきたということのようである。

まあ、この写真のは、あまり、よろしくなかったと思うけど。一つ一つ、蛍光灯にあてて撮影すると、全く違った画像になると思う。

ギャラリーの光は黄色いのが難なのだ。

前にも紹介したかもしれないけど、別世界巻の題字。

この前、安東センセイがいらっしゃったときに、『これはヒドイわねえ』

という顔をされてしまった書である。

私なりには満足している。

理由は、欲の無い書だからである。

テレビ番組で、どなたが話されたのかなあ。

日記が書けないので、どの番組だったか忘れてしまったが、そんなに昔の話ではない。

その人は、書について何らかの解説をされていたのだが、『上手く書こうとしていないのに、その人の書になっている』から、その書がいいのである。

と評された。

なるほどねえ。

アタシは、書の見方についての理解を、一歩進め、今まで「どうしてこれが良いとされているのか、全く解らなかった」作品についても、それが、展示室に展示されている理由を理解した。

そうして、次から、書の展覧会のチラシを見て、今まではどうしてこれがいいか解らなかったその書こそ、素晴らしいのだということも見極めることができるようになっていた。

書道の展覧会なんかに出そうと思うと、いつの間にか、センセイや審査員の皆様に褒めていただこうという気持ちで作っている。

そこがマズイのよね。

俳句だって、絵だって同じである。人間のモチベーションが何であるのかと結果との関係だ。

そういう所から離れて、自分の作品を作ることがどれだけ難しいのかということにもなり、欲の無い書というのは、その難しさや、見る人への媚を超えているということになる。

左は、この前古本屋で買った、俳句の雑誌に掲載されていた碧梧桐の俳句をいくつか並べて書いたもの。

墨に竹の割り箸を使う。

意味が解らないというのを除けば悪くない。

全体的なリズムであるとか、何が書いてあるんだろうと近づけば読めるというところも、書としての最低条件を満たしている。

文字というのは、読めなければ意味がない。

書が売れる日は来るのだろうか?

今年に入って、書の作品は激増中。

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