◆◆◆ 1094 ★ 長谷川利行(通称リコウ) ◆◆◆

 

2008.2.10.更新

テレビで、長谷川利行(通称リコウ)の番組を見る。

家も持たない流浪の画家。

単純に、経済観念が不足していただけと思う。

物凄い早描きが特徴。

電車の中や、観劇中にも油彩画をサラサラと描いたらしい。

絵を見れば、まあ、そういう感じはよく解る。

油彩をサラサラと描くには、それなりのテクニックと高い描画の力が必要なのだ。

彼は、路上で、自分の描いた(紙や板に描いた油彩)を激安販売し、その日に飲む酒代や宿代を稼いでは、飲み歩いたそう。

モディリアーニも、実は、酒場で客の似顔絵を売っては、ゴチになっていたみたいだから、そんな感じなんだと思う。

家が無いっていうのは、強烈だよね。笑。

当然に、ムリがたたって早死に。

大量の作品は散り散りでも、世に残っている。

壮絶な画業という意味では、まあ王道。

利行(通称リコウ)の絵は、何枚も見たことある。個人的感想としては、絵(描画速度)が早いよなあということ。

それから、板などに描かれているので、長居年月の間、絵の具の油が板に染み込んでしまい、表面がひび割れ、本来の色なども褪せてしまっているんじゃないかと類推。

たぶん、もともとのコンディション(もっとイイ画材に描かれていたのだとすれば)であれば、完成度は数倍高かったんじゃないかという評価。

まあ、名前のある人なので、そういった、ボロい絵でも、相場というものはあり、収集家は、一枚ぐらい持ちたいという作家さんの1人だと思う。

まあ、品薄感があるって話である。

早いヒッチの絵が悪いってことではない。心や生活の殺伐とした部分が、そのまま絵に出ているんだという話よ。

画家としては、コンディションよく、恒久的に楽しめる材料にて創作をした作品を残すべきだろうという教訓にはなる。

イロイロな作品を見ていて思うことは、作家というのは、『見たまま以上』の作品も作ることができないとダメだということである。

嫌まあ、風景をキレイに描ける。

それはそれで結構。

そういう画家はいくらでもいる。

が、画家として名を残すのであれば、それだけではダメだということである。

ゴッホやルノアール、モネの絵と、セザンヌやマネ、ピカソの絵の違いについて、考えて欲しい。

ゴッチャリと混じった情報のようでも、実は、圧倒的な違いがあり、それが、印象派決裂の根源にある。

左から、ドガ、セザンヌ、

真ん中がピカソ、右がモディリアーニ

左下がゴーギャン、ゴッホ、マネ。

また、巨匠たちの肖像画も描きたいなあ。

結構似ていると思う。笑。

ゴッホの絵は、最も特徴的。

彼は、目の前に被写体がないと、絵が描けなかった。概ね、それを、自分なりの色彩とフォルムでまとめあげるという創作。

この絵を見て、ゴーギャンは、『被写体がない(何も見ない)状態でも、絵を描けないとダメだ』とゴッホに助言している。

そうして、ゴッホが、その助言に従い何も見ないで書いた、おばちゃんの肖像画の習作というのも残されている。(けど、うまく描けなかった)

だいたい、ミレーの種巻く人とか、浮世絵の模写なども公然と自分の作品として発表してしまう、ゴッホの美意識というのが、レベルが低いのである。

素直に、目の前にある作品に刺激された創作であり、結果的には、浮世絵の模写なんかが、見る物の心を掴んでいるということに間違いが無い。嫌まあ、有名になれば、何でもいいんだけどさ、だけれども、創作者という一点においては、それだけでは十分ではないという評価なのである。

そうして、ゴッホは死んじゃったけど、その、創作の方向性が、写実に基づいたものなのか(ルノアール、モネ)、

それとも、絵に意味を込めた瞬間表現(ゴーギャン・マネ)なのか、

そうではなくて、創造的、寓意的、もしくは、空想の世界、キュビズム(シャガール、ゴーギャン、ピカソ)

というように、その創作の方向は、画家により少しずつ違いが生じて、その関係は激論の上、短期の間に破綻してゆくのだ。

私が絵を見るときには、そういう過去の経緯も勘案し、『目の前にあるものをそのまま書いているだけなのか、それ以上なのか』を見ているということになり、利行の絵は、ゴッホや、モディリアーニ、モネと同じように、現実を映す範囲から逸脱しない作品だと思う。

そうして、創作者として、そこにとどまったままというのは、全くついていないと思わないわけにはゆかないのだ。

 

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