◆◆◆ 1061 ★ 八朔にコスモス咲いて彼岸酒 ◆◆◆
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2007.12.13 |
テレビ番組で、世界遺産のナントカ村の特集を見た。 蕎麦屋というか、クマ肉を食べさせる料理店かなんかの店先に、大きな暖簾。 八朔にコスモス咲いて彼岸酒(うろ覚えだけど、確か、こんな俳句。間違っていたらゴメン) という俳句が書かれていた。 八朔にコスモス、しかも、彼岸という季語トリプル。 八朔からコスモスが伸びて、咲いているのか。 それはまた、シュールな俳句だよな。 ウチのオットは、この俳句に爆笑し、ヒドイね。などと猫に話しかけている。 そんなにヒドイ俳句が、暖簾になるはずがない。 アタシは、八朔にコスモスの俳句のことを考えていた。 現代系の俳句なのか? ??????? おおっ。墓かな。 八朔を置く。近くにコスモスが咲いている。 酒を飲む。 亡くなった人を墓場で偲ぶ俳句である。 いい俳句だぜ。 |
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というように、俳句を読むというのは、一筋縄ではない。 直接的な表現を避け、自分の気持ちを句にするというのが、目指すべき場所である。 それは、定型(五・七・五)であっても、自由律であっても同じ話。 八朔にコスモス咲いて彼岸酒(詠み人、今の所不明) という句は、誰の句なのかなあ。 まあいいかぁ。 俳句マニアの皆様が、きっと探し出して教えてくれるに違いない。暖簾になるほどの俳句なわけだからさ。笑。 |
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俳句もしばらく作っていないけどな。 また作りたいよな。 この前、テレビで、写真に俳句をつけるというのを見た。 あれは、なかなかの盛り上がり。 映像が一緒になると、句に臨場感が出る。 でもまあ、本音のところ、そんなことをしてはいけない。 俳句とは、文字だけで、その映像を湧き上がらせ、作家の内面性を表現するものが王道と私は信じている。 映像に頼れば、句が誤魔化される。 もしくは、映像の力を借り、自分の駄句を昇華させてしまう。 だから、句は悪くなる。 文字の芸術というのは、文字の中で表現されるべきなのだ。 |
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地元の書道の展覧会のポスター作成かぁ。 題字ぐらい、書いて欲しいよな。 題字の良し悪しで集客が決まるのだ。 書道風のフォントを使ってくださいというご指示。 クライアントの要望には沿うというのがデザインの方針。 先日、作品ファイルをギャラリーに置きに来た高橋さん(イラスト畑、デザイン畑で長年仕事をされてきた方)との話。 高橋『四角いものが丸くなっちゃうんですよ。』 オジャラ『それって、どういう意味っすかね?』 高橋『こちらが四角いデザインを出してもですね、結果は、(他者の意見を取り入れすぎて、)丸いんですよね。』 オジャラ『ああ、そういう話ですか。アタシには、そういう仕事来ないからなあ。笑。それに、イラストやデザインのお仕事って、本業じゃなくて、(こちら側としてのやる気が物凄い低いので)別に、どう直されても、なんとも思わないですよ。先方が気に入ってくれないと、次の仕事取れないですしね。』 などという話。 高橋さんからは、昔は、イラストで随分と儲けたのだとかいう話を聞かされる。 儲かる仕事だと思ったことは一度もない。 時代は変わったのである。 |
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