◆◆◆ 865 ★ 油彩 ◆◆◆

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2007.3.20

この前、カンバスの整理をしたときに、出来の良くない絵は、上から加筆することに決める。

その絵の山の中から、いくつかの絵を取り出し、上から、絵の具を垂らしたり、チューブや絵の具のキャップを貼り付ける。

新しい絵といえば、新しいし、花の絵の方が、まだ売れる可能性があったといえば、そうも思える。

花の絵かぁ。

三岸節子みたいな絵をまた描きたいけどなあ。笑。

バクリなの?

嫌まあ、そういう厚くて、迫力のある、力のある花の絵を描きたい。

とまあ、そういう個人的な方向性ということになる。

アタシの絵も、悪くないけどね。

もう飽きてきたのかもしれない。

折角独自の世界が出かかっていたのにね。笑。

まあいい。

同じ絵ばかり描いてはいられない。

人間の激しさというのが、絵に出ているのかもしれない。

このカンバスは、なんらかの絵を描き、失敗し、もしくは、絵を描き終えたときに、パレットの上の残りの絵の具や、筆についた絵の具を掃除するために作られたカンバスで、まあ、汚い状態の作品であるとか、絵の具の塊が所々にあるような下地である。

その上に、固まりかけの、自分的にはゼッタイに買わない色の絵の具を乗せたりしてゆく。

左上の赤は、マツダのブライトレッド。この絵の具だけは、マツダの絵の具である。

余りにも色がキレイなので、アタシは、本当にビックリするのだった。

安売りの絵の具の中には赤が入っていなかったので、手持ちを使うことになったということになる。

おどろおどろしいというのが素直な感想。

チューブはきっと、剥がれ落ちてくるに違いない。

とか、絵の具と科学反応を起こして、黒くなってしまうかもしれないなどという不安定な状態。

それはそれで、アリだよなあ。

逆に、「チューブの部分は、(科学反応により)黒くなるという予定で作ってある」などとカンバスの裏などに書き残しておけば劣化とは思われない。笑。

絵の世界って奥深いよねえ。

岸田劉生の番組を見る。

それは、もう何度となく見ているのだが、良さはよく理解できない。

理解できたのは、彼の全集なる文字による作品集が残されており、それは10冊もあること。

文学者などは、そういう手記を元に作品の分析を行うということ。

絵を描かない人にしてみれば、本人が「こういう意図で作品を作った」

などという資料を基に、作品を鑑賞するのが楽しみということになる。

それは、全く個人的な手記や感情、自己作品の評価に過ぎないのに、それが、絵画業界全体の話のように、番組が進められてゆくのに驚いた。

まあ仕方が無い。

100年前は、それでもヨカッタとも思えてくるし、近代美術館がまとめて収蔵したから、こういう結果になったのだとも思う。

どういうことかといえば、彼ら(美術館)の仕事というのは収蔵品の存在を皆さんに知っていただくことなのである。

であるからして、収蔵作品をこまめに展示替えしては、ウンチクなどの貼紙をし、コツコツと作品や作家さんを紹介。

時にはまとめて全国の美術館に貸し出したりもする。

そうすると、日本全国を、岸田の絵は巡回しながら、ファンを増やしていく。

とまあそういう話になる。

アタシは、くだんの手記は読んではいないが、本人が、作品を作るときに考えていることなどが綴られているのだそうだ。

印象派から脱出し、写実に戻るとか、そういう自分の創作の方向性とか、試行錯誤とか、思うように作品が仕上がらない苦悩のようなことが綴られているらしい。

結果も、当然に個人的な意見であり、客観ではないのだが、そういった書物は一人歩きし、読んだ人は、「これが内面表現だ」

などと、語るようになる。笑。

画廊を回っていて、一番笑えるのが、「叙情的詩的表現の中に見られる内面表現」

という評価。

アタシが見た限り、評価のしようがないときに使う言葉としか思えない。

嫌まあ、全部がそうだと言っているわけじゃないけどさ、そう説明しておくと、「おおっ、これが叙情的表現なのか」

などとね、見る側が勝手に思い込んで、思考回路の中で、いい作品に昇華されるみたい。

イコール、高値で売れるという世界でさ、取り扱う側にしてみれば、それはそれで儲かるから、そういう事にしておこう。

というムード。

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