◆◆◆ 859 ★ 宿坊の番組を見る ◆◆◆

2007.2.22

オットが出勤した、すぐその後から、宿坊の番組が流れていた。

宿坊かぁ。

お寺の小さい部屋に泊まり、布団なんかも自分であげさげする。

料理も宿泊者や、お寺の方と一緒に作ったりする。

まあ、そういう場所があるということだ。

アタシも、大きくなったお寺が、お布施だけで、どうやってあんなに沢山のお坊さんを養っていけるのかが不思議だった。

なるほどねぇ。

別なる収入源を持っている寺があるということになる。

宿坊・及び、料理教室。

手広いわぁ。

お寺には、それぞれ特徴があって、宗派や、お寺のコンセプトごとに、体験コース(滞在中の難易度/滝に打たれるから、何もナシまで)が分かれている。笑。

観光ビジネスかっ(→欧米かっ風に)

アタシの心は晴れやかだった。

そうだろう。瀬戸内寂聴さんも、「アタシも出家して、尼さんになりたいんです」

などという相談に来た人に、

「坊主で食べられるはずがないでしょう?それに、お寺の中では虐められますよ。どのお寺にもお金なんてないんです。出家する覚悟があるのであれば、今の辛い状態を乗り越えて、また新しい人生をスタートできますよ。出家も人生もカンタンに考えないで。」

などと、現実的な話で脅しをかけてくる。

寂聴さんも、自分が出家したときや、家族を捨てて家出したときには、「アタマがおかしかったんだと思う」

と自らの体験を話されていた。

番組的には、お寺の中とか、修行の様子なんかも見れるし、体験者とお坊様のやりとりなんかを伺うだけでも、心が晴れやかになる。

お坊様の言葉というのは、本当に、哲学的であり、個の人の問題の確信を探り当て、生きやすくしてくださるような話を投げかけてくれる。

そういう修行も積まれているのだと思わされた。

滞在者は、精進料理を作ったり、野菜を摘んだり、境内の掃除を一緒にしたりして、(お寺によっては、もっと難易度や、苦痛を伴う修行もある)さりげない会話を通じて、宿泊者はお寺の人にどんどんと心を開いてゆく。

そういうのがよく解って、宿坊というのもいいものだなあと思った。

カウンセリングのように、椅子に座ったまま話をするということよりも、なんらかの体験を一緒に行うことにより、物凄く短時間でその人のことを理解できるのである。

それは、カンタンな料理であっても、町歩きであっても、アート創作であったりしてもである。

そういった体験を行ったという、時間の共有による信頼関係や人間関係というのは、カウンセリングなどよりも、よっぽど、その人の問題に気づけるということだと思う。

今の人は、小さい悩みも乗り越えることが出来ず、逃避する思考に進んでしまう。

自分で乗り越えようという気持ちかなければ、次の場所でも、また同じ問題で人と行き違い、ストレスが溜まってしまうのである。

そういう生活の中で、絵を描くというのは、本当に素晴らしい時間だなと思う。

少なくとも、絵を描いている時間は、現実の嫌な話も思い出さないし、なにもかもから開放されて、1人になることができるからである。

編み物とか、織物とか、なんらかの単調な創作活動というのも、それに似ていると思う。

古布を使った手工芸なんていうのを楽しんでいらっしゃる方も多くて、そういう時間を持てた人は、幸せだとアタシは思うのである。

番組に出てくるゲストさんは、一流のアスリートだったり、女優さんだったり、小説家だったりする。

アタシにしてみれば、本当に、強い精神力を持っている部類にいらっしゃる方たちの類。

なのに、引退後の人生や、賞を取った後の自分の方向に苦しみや迷い、不安を感じているという話が出てくる。

どんな人にも不安というのはあるもので、その不安を払拭できるのは、自分の努力と、積み重ねた努力の上に行った人だけが見ることの出来る軌跡なのだと思わされた。

お坊様は、親身に相談の確信に触れ、前に進むようにとか、あるがままにとか、今起きていることを不幸だと考えないようになどという助言を与えてくださる。

オジャラには、カウンセリングの学校に行っていたときの、センセイのようだと思えてきた。

もともと、お寺というのには、人の心を落ち着かせ、どんな人も同じような悩みを持っているものだとか、そういう現実を共有させることで、心の安定を計る昨日があったんだろうなあ。

どんな人の悩みもなくなるという事はない。

誰にも話せない人は、宿坊体験をしてみるといいかもしれない。

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