◆◆◆ 818 ★ ついていない男の話 ◆◆◆

2006.12.11

その男は、話しかけている全ての人に断られて、去られていた。

アタシは、駅にでも行きたいのかと思い、「May I HELP YOU?」

と尋ねる。

そうすると、彼は、逆切れし、自分の困中について話はじめたのである。

あまりにも流暢な英語だったので、ほとんどは理解できなかったが、彼が、今、金を持っていないということだけは理解できた。

どうやら、町屋で、知人に飯を振舞ったら、金が無くなってしまい、しかも、知人からはぐれてしまい、2時間も彷徨って(北千住まで流れ着いた)いるという話である。

それ以外の話は、名前すら、何度聞いても理解できなかった。名前は、彼も言葉を濁している風だったけど、そんなことはどうでも良い。

私は、サイフの中にあった全額(といっても3000円だけど)を彼に渡した。

「私に出来ることは、これだけよ。」

そういうと、彼はまた怒り、「ボクは子供じゃないんだよ。3000円で一体何ができるんだよ?」

などと怒鳴り散らす。

アタシは、「24時間営業のコーヒーショップにでも行き、暖かいものを飲み、朝になるまでの間、どうするか考えたらどうだ?」

と言い、彼の幸福を祈り握手をした。

冷たい手であった。

彼は、アタシの家に泊めてくれないかなどと話し始めたが、それは断った。

住みつかれても困るし、家がそれ程広いということでもない。

ついていない男であった。

外国で文無しになり、知人もいないのだ。

あの日は寒い夜であった。

その次の日は、冷たい雨だった。

コートも無しに、このまま彷徨い続けるに違いないのである。

アタシは、区内にある大きい教会のことを教えてあげればヨカッタと思いながら、そんなことは思い浮かばなかったことを、心の中で詫びた。

彼がこのピンチを切り抜けて行くことを祈った。

それにしたって、あんなに言葉が通じないんじゃ、凍死だよなあ。

3000円というのは私にとっては大金だ。F4カンバスが、7枚も買える金額である。

でもまあ、アタシも外国に暮らしていたことがあった。

そのような非常事態に陥ったことはなかったが、もし、そういうことがあったときに、誰かが助けてくれたら、きっと感謝したと思うのだ。

もちろん、バリ島には、食い詰めて、観光客にタカる、ついていない在住者も沢山いた。

嫌まあ、ほとんどがそんな人たちで、そのことを思い出すだけでも、全くついていないのだ。

それでも、できる限りの事をするというのは、ある種の生き方かなあと思う。

餓鬼に供物を与え、自分の厄を落とせたと思えば、気分は悪くない。

世の中の餓鬼というのは、どこにでもいる。

餓鬼とは目の前の不幸な男を疑う、自分の中にいて、生きるという事は、その餓鬼と戦い続けることに他ならない。

今年の厄払いは、4640円ということになる。

神社に祈祷に行ったりはしないので、まあ、私の年齢とすれば、妥当な出費かなあ。

そうして、そういう生き方というのは、必ず絵に出てくると私は考えている。

この話をすると、された側全員が、「そんなことをするべきじゃなかった。だまされただけだ」

などと、アタシのことを「良くないことをした」と否定する。

ウチの母に至っては、「そういうのは、寸借詐欺っていって、よくいるんだよ。もう、二度と金を渡しちゃだめだよ。」などと、説教まで。

そういうやりとりの中で、誰も信じられず、誰も救おうという気持ちすらない現代の人の、心の寂しさや、徳の無さまで見えてくる。

フランスから取り寄せた、限定ブランド品の何十万もするバッグをいくつも持っているのに、目の前に偶然居合わせた不幸な男に、金を貸すことも出来ない。とまあ、そういう道徳観の実態だということになる。

病巣としては、こちらの方が心配。

全体的に、社会の思考回路が病んでいるって事なんだろう。

アタシは、悪いことをしたということでもないと思う。だいたい、厄払いができてヨカッタなどと言われているんだからなあ。たった640円ポッチで厄ももらっちゃうのであればついてないよなあ。

「それが、本当でも、ウソでも、彼が金に困っているという実態があり、ついていない人生だということには間違いが無い。賽銭箱に金を入れた気持ちで小額を渡すことで、その人の窮地が救えるのであれば、それはそれで、いいじゃない。何百万円も騙し取られたという話じゃないんだし。」

4640円。

この話で、これだけ宴会が盛り上がるんだから、悪くなかったぜ。

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