◆◆◆ 814 ★ 伊藤豊雄展 ◆◆◆

2006.12.11

この展覧会は、この前、イラストレーター協会のボーリング大会の日に、高田の馬場まで行くので、ついでに、初台のオペラシティーに足を運んだ時に見た。

上のiccインターナショナルセンターでは、ヴィルヴィオラの展覧会も開かれていたらしいが、片方しか見る時間がない。

アタシは、伊藤先生の建築の展覧会を見ることに決める。

ヴィルヴィオラも見たいけどなあ。

ビデオを使った展覧会というのがね、ピンと来ない。というか、なんとも言えない。

オジャラよ。現代作品を作るのであれば、まずこっちをみるべきなんじゃないのかよ?

人生というのは、あらゆる決断のシーンで、どちらに進むのかというのを自らが決めながら進んでゆくということに他ならない。

ヴィルヴィオラは、この先も見ることがあるはずなんだけど、伊藤先生の建築の展覧会はこの先、いつになるか解らない。

伊藤先生の建築物だって、見たら「スゲー」の一言に尽きて、それが現代アート的だと、解る人が見たら、全員が思うと思う。

どんな創作であっても、現代の考え方を取り入れているかどうかというのは、結果に出てきてしまうということに他ならない。

現代的な考え方を否定している多くの作家の人たちは、本当に損しているよなあとアタシは思うのよ。

「自分にはよく解らない」というのは、単なるアナタの勉強不足に他ならない。解るまで見て、考える。

そうして、理解できた人にだけ、結果が伴うのである。

いやさあ、見る人は、いいのよね。よく解らないままでもね。そういう人が多ければ多いほど。

印象派の絵だって、誕生から100年経って、やっとその良さが受け入れられたという歴史を考えれば、現代アートだって、そういう可能性は秘めている。

伊藤先生の洗練されたデザイン、軽やかなその建築の美しさには、本当に驚かされる。

テレビで見た、彼のお友達は、「ギリっギリっと、建築の新しい世界を切り裂いて、先を行く人だ。ボクには、この建築がなんだか全くわからなかった」

と話していた。

「何だか全く解らない」

これがキーワードである。

彼は、「伊藤さんの作品が理解できてきたのは、ずっと後になってからで、ボクには全く及ぶものがない」みたいな話もされていた。それだって、彼も一生懸命、伊藤さんの作品の持つ意味を、解るまで考え続けたから、理解できる日が来たのである。

信の創作者であれば、優れた作品に触れたときに、その作品のスゴさというのは、必ず受け入れることができるはずなのだ。それが、ゴミでも、便器でもである。

見た人に、「何だか全く解らない」と思わせる作品を作れる人など、そう多くはない。

大竹さんも、「女神の自由」という、自由の女神みたいな形をしたパチンコ屋の看板をもらいうけ、「この、大きさがいいでしょう?これが、1メートルとか、2メートルじゃダメなのよ。7メートルあって、1トンないと。無駄でしょう。こういう、どーしようもなくムダなものでないとね。」

と、嬉しそうに話されていた。

現代アートのゴールは、ムダなものということなのか?

日本では、何故、現代アート的考えが浸透しないんだろうなぁ。

伊藤先生の展覧会の会場には、本当に驚かされた。今まで、3つの建築の展覧会を見に行った記憶がある。

図面や建築模型、写真が展示されているというのがほとんどで、あとは、家具とか、椅子、実物大の家の模型というのもあった。

実物大の家の模型っていうのは、今思い出してもスゴかったよなあ。

その機能や、開放感をおおいに体感した展覧会だったと思う。

が、今回のは、そういう域とは違う場所にあった。

会場のビデオの中で伊藤さんは、ベルリンにある美術館の床が、自分の建築に影響を与えたと話されていた。

その美術館の床は、起伏があって、まるで、野山のように凸凹しているのである。

そうして、そこに、絵とか立体なんかが展示してあって、鑑賞者は、その起伏のある床の上を、坂を上がったり、転びそうになったりしながら、見なければならないのである。

確かに、あの床は、(伊藤さんの作品なのか、そのベルリン筋の作品なのかはアタシには理解できなかったが)どんな床だか体感してみたいと思った。

床が平らでなければならないなんて、誰が決めたんだよっ。

そうして、そういう凸凹の床の中に、伊藤さんの建築模型とか、建物の工事の工程の木枠とか、図面の拡大図なんかが展示されていて、本当に心が動かされた。

ああ、なんて躍動感のある展示なんだろう?

最後には、彼の手がけた建築物の小さい模型と、図面なんかを展示しているコーナーがあって、若い建築家志望という顔が、腕組をしながら、ギュウ詰めになっている。

アタシのような冷やかしが邪魔をしてはいけない。若い方に、この鑑賞の時間を譲らなければと思わされる熱気にも驚いた。

多くの若い人たちが、展示品の前に立ちすくみ、その、建築の常識を軽々と超えた美しい作品群に、ただ、あっけに取られている。

全てが模型なのに、それ程の展覧会だということになる。それは、その向こうにある、実際の建築物が存在しているという現実に、感激している鑑賞者の姿である。

ヴィルヴィオラなど後回しにしてよかったぜ。

この展覧会を見た若い建築家は、もっと新しいことにチャレンジしようというアドレナリンに満たされたに違いない。

そんな刺激を受けることなど、世の中にはそう多くない。

創作者というのは、人の心を動かす作品を作るという所がゴールでなければならない。

どんな人の心を、どのように動かすのか?

ということもあるんだけど、全ては、結果次第。

ということになる。

いい展覧会であった。

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