◆◆◆ 808 ★ 伊藤豊雄センセイ ◆◆◆
2006.12.11 |
建築家の伊藤先生の番組を見る。 それはもう、何度も繰り返し見ている番組で、その番組を見るたびに、アタシはどうして建築家にならなかったんだろうと思うのだ。 学生時代に、ガウディの建築物を見に行こうと、金を貯め、一年間スペイン語の勉強をした日の事を思い出した。 そのときには、建築家という職業があることすら知らなかった。 今日はガウディ、昨日は、ピカソ、明日はジョアンミロという毎日で、柔らかい地中海の光を思い出す。 行ってヨカッタよなあ。 番組では、伊藤先生のお顔はたいして笑っていないんだけれども、アタシが彼の絵を描くと、いつも先生は笑ってしまうのである。 新しい空間を創造してゆくというその素晴らしさが、内面から出てきてしまうからなんだと思う。 |
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今日は千住博の番組を見る。 一番迷惑しているのは、千住で検索すると、千住博ばかりが出てくるところである。 はぁ。 千住のコンテンツはどれも、彼のコンテンツに完敗ということだろう。それにしても、多くの画廊に扱われているということにも驚かされる。 どちらも、新しい作品を作ろうという方向性は同じである。 最も違う部分は、千住博が個人的な作品が美術史に残るかどうかというのを考えながら作品を作っているということに対して、伊藤先生は、「テクノロジーの上に、人の手のぬくもりや、自然を感じさせる建築」というのを目指しており、それは、壮大で見たこともない建築に携わった人の意欲をかきたてて、新しい技術までも産み出してゆくという結果だろう。 既に、「こんな建物見たことが無い」というのをいくつも作っているワケよ。 昔不動産の管理をやっていた頃の話を考えれば、あり得ない建築物。 とまあ、そういうことになる。 |
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建築費は同じとしたって、建物のメンテに関わるコストって、一体どーなるのよ? とかさあ、どこか壊れたら、一体修理費いくらかかるわけ? みたいな世界。 でもなお、そういうのを超えて、スゲー。 という域。 「スゲー」 という世界なわけよ。 今までみた建築家の中で、最も柔らかい建築物だと思う。まあ、ガウディの作品も柔らかいけどさあ。 グニャリと解けたチョコレートのようなその建物の事を私は一生忘れることはないであろう。 伊藤先生の建築も、ガウディと同じでさ、その凄さというのは、番組を何度見てもスゲーという世界で、管理費がちとお高いなどという、小さい話を超えたスケールで、建物という結果として、世に残ってゆくということになる。 |
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千住博さんの作品は、作品を作る側から言わせてもらうと、すこぶる不評。笑。 不平を述べているのはアタシじゃないよ。念のため。描く側から言わせてもらうと、上から液を垂れ流して描くという手法がさ、安易だと思われるわけでさ、その絵が高値で売られているというのが不評なワケよ。 アタシ的に言わせてもらえば、あっという間に作れて効率いいわぁ。 (安易に見えるけど、絵の具とかは、独自に調整して、ちゃんと、画面に定着するように調合してあるはずなのよ。日本画って、画面への定着と色との戦いなの。) という話と、それを超えて、本当に美しい色彩やコントラスト、また、作品の中に引き込まれていく、自然のエネルギーみたいなものは感じるワケよ。人気作家なだけのことはあり、完成度や装飾性、置いていて嬉しいみたいな必須条件を満たした作品群が、安定したレベルで作り出されているということに間違いはない。そこいらの美大生などには、到底作れない作品群だということである。 何よりも、新しいことをしようという意思が作品の中に現れている。 新しい事など、誰にでもできるということではない。 欺瞞に満ちた絵ばかり見ていると、それが、意外な結果であろうとも、今まで見たことが無いという作品の方が、よっぽど芸術的だと思えてくる。 価値が理解できている人は、実は、その、新しさという部分に結構なウエイトを置いて作品の評価をしているんじゃないかと、最近は思うようになった。 どんなに上手く描けた絵であっても、その中に、自由や新しさがなければ、世に出ることはないということを意味している。 山種美術館で、千住センセイの滝の作品の展覧会が、オペラシティでは、伊藤先生の展覧会があるらしいので、是非見に行こうと思う。 |
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