◆◆◆ 795 ★ 創作するということ ◆◆◆

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2006.11.27

ただ、作品を作ればいいということではないというのは、最近理解できてきたことの一つである。

そうして、その次に、進むのは、「何か意味のある作品を作ろう」

という場所である。

意味のある作品かぁ。

一体、どんな意味を持たせればいいのか。

「よーし、自分は、世をあっと言わせる、意味を持つ作品を作るぜ。」

とまあ、人間の思考というのは、ここに来るわけで、全くありきたりで、平凡な発想ということになる。

そうすると、平和だとか、地球環境とか、社会問題にスポットは当てられて、やっぱり平和活動に走っちゃうわけだよね。

もしくは、タブーとか、殺戮とか、戦争とか、人があまり話したがらない、不の感情に訴える作品とかさ。

そうして、そういう作品作りを卒業すると、次に行き着くのは、「意味の無い作品」を作るという場所になる。

たはは。

「この作品には意味はないの」

などと自分の作品をペラペラと解説しているアタシの昨日を思い浮かべ、それは、通らなければならない道であったと振り返る。

そうして、今度は、「内面表現とか、叙情的、詩的表現」などというのを考える。(順序が逆という気もするが、それは、アタシが学習した順序が逆だったということで、気にする部分ではない。何故今更内面かといえば、)高値で売買されているからである。

そこかい????

職業であるのであれば、誰が、どんな作品を求めていて、誰が稼いでいるのかを知るのは、大切だろう。

この人、誰なんだろうなあ。

ま、買うほうも、「内面・叙情的」などという言葉で、まだサイフを開いてしまうのだから、たいした進歩はしていないということである。

それでも、絵が売れないと嘆く画廊の人と話すと、そんなに単純な話でもなくなってきているのだと思う。

見る(収集する)ほうは、扱うほう(画廊や作家)よりもはるかに沢山の知識を持ち、冷静に作品を見て、正しく買う品を選んでいるということに他ならない。

アタシが心配なのは、昔のやり方にこだわって、新しい作品を扱わない画廊は、古いタイプの作家と一緒に滅びていくんだろうというところである。

世の中はそんなに甘くない。

着物のお店や、草履店が閉店になるたびに、いくら単価が高くって、(老舗なので)家賃がかからないからと言って、生活できるということでもないという厳しい現実があると考えさせられる。

ブリキのオモチャがいくら頑張っても、任天堂のゲーム機には負けてしまう。

彼らは、大人の脳の老化を防ぐなどという売りで、ゲーム機を大人にも買わせてしまう凄腕だ。

アタシだって、同じ3万円なら、今度は(絵より)そっちを買おうと思うわけで、絵が売れないというのは理解できるよなあ。絵は老化を防いでくれたりはしない。

個展にアーティストの方が訪ねてくると、概ね、「企画画廊で展覧会をやると、絵をこうした方がいい」などという助言を受けるらしい。

などという話になる。

アタシは、企画画廊で展覧会やったことないから、よく解らないと答える。

でもまあ、そういう事はあるだろうとは思う。

画廊にしてみれば、お客さんが買いたい絵を作ってもらえればそれでイイわけで、作家は誰でも構わないのである。品物が売れてくれさえすればよい。

扱い側は、作家よりも何十倍もお客さんが買いたい絵のことは良くわかっている。

画廊がイロイロな売れ筋の絵についてのレビューなどを作家さんにしても、作家さんは心を閉ざしてしまったり、自分の作品にケチをつけられたと思う場合も多いという話を聞いたことがある。

「私は、そういうのが嫌なのよ」などと愚痴られると、そういうものだろうと思ったり、作品を売ってくれるなら、割り切って言うとおりの絵も描けばいいのにと思ったり、気持ちは交錯する。

横尾さんの番組を見たときに、「ピカソは、自分の描きたい絵を描いた」という所に心を動かされて、横尾さん自身もグラフィックデザインから、美術家に転向していったというのを思い出す。

あんなに自由な作風なのに、それでも、クライアントからの要望で作品を手直ししたりしなければならないのは不満だったんだということになる。

自分の描きたい絵を描いてそれが売れれば、それに越したことは無い。

それこそ、それが、創作者というものである。

横尾さんのスゴイなあというところは、「この絵はルソーの絵からインスピレーションを得ました」などといいながら、連作を仕上げて、しかも、何枚も似たような絵を描いて、それを美術館が持っているという所だと思う。

そうすると、今度は、フツーの収集家もそれと似たのが欲しいので、頼んで描いてもらったりする。絵が売れれば、今度は、自分の描きたい絵に回せるという話である。

創作者としては、人の作品のパロディなど、タブーという場所にあるものを、公然と自分の作品として確立しているという例は珍しい。(嫌まあ、池田満寿夫にしたって、ピカソにそっくりという絵もいくつもあるし、ヤマモトヨーコだって、ゴーギャンの絵のパクリみたいな連作を作っていて、それは、他の作家さんにだってそういう作品はあるはずなのである。)

アタシは、ここで、「マネ」の事を思い出した。彼は、長い間サロンには入選できないでいて、印象派展などに出品したりした人である。晩年は、サロン入選作家となり印象派グループを去った画家である。

名画のパロディーとも思えるような絵ばかりでサロンに挑んだからだよなあ。

でも、横尾さんのように、サロンから離れて、自力で進んだのだとしたらどうなっていたんだろう。

横尾さんは話題性のある絵と、自分の絵というのを使い分けられる人である。

二股の道の連作というのだけでも60枚近くもあり、そのうちの1点とか2点が美術館収蔵になれば、今度は、その絵だって売れてゆく。

そうして、この前のテレビ番組では、60年台に描いた絵をもう一度描いたりして、卑怯だけど、それは売れるよなあ。と思うわけ。

彼は、いくらでも絵を大量に作れるという工夫をしているよなあ。同じ絵だもんなあ。

でもまあ、沢山の絵が世に出回るというのは大事で、大きい絵は美術館、小さい絵は収集家という話で、成功した作家さんの事例としては、参考になる。

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