◆◆◆ 776 ★ 藝大記念受験-2 ◆◆◆

2006.9.19

発表の日が来て、午後から上野に向かう。

試験は取手で、発表は上野というのがね。

まあ、取手まで発表見に行くのは、本当に大変だから、これでヨイのだと思う。

一生懸命に探したが(というか、それほどの数でもなく)、私の受験番号は見つからなかった。

まあ、仕方が無い。

世の中にはもっとスゴイ人たちがイッパイいるわけで、皆、この日の為に生きてきましたというような、思い詰め方で受験をしているのである。

私のように、気軽に受けるべきではない。

が受験したことを悔いることも、思い残すことはない。受けなかったら、後悔をしたかもしれない。少なくとも、アートの研究という部分では理解を進めることができた。芸術に対する(真贋であるという)保障について、私は考えたことが無かったからである。全部自分の作品だからさ。(中には、意図してパクリ品を作ることもあるけど。模写やパクリ作品には、それはそれで、私にとっては重要な意味がある。)

帰りに、日曜美術館展を見ることにする。

「俗とか、下品とかいうのは、悪である。私は、そういうのが(母が上村松園だったので)自然に身についていて、格調高さや美を追求することが本当の芸術だと思う」

などというコメントを読んでは、ああ、私とは、やっぱり住む世界が違うんだと理解した。

アタシの作品程下品な作品も多くない。

品の無い作家は、品の無い場所で生きろということのようだった。

そうして、日曜美術館30周年記念という、ごく最近の番組なのに、時代は80年前から100年も前の洋画が中心に絶賛され、現代芸術論を混沌とさせる展示品である。

そりゃあ、50年とか100年前はこれが芸術でも構わないけど、今は、もっと、新しい考えも取り入れて作品を作らないと、、、、、という持論など、入る余地のないその展示品に唖然としながら、日本の美術の歴史をよく表現した展覧会だとは思うのだ。

それなのに、結構な人の入りで、観衆は、「ああ、この作品は見たことがある」

などと感想を述べる。

(テレビで)見たことがあるという感想。

アタシにも、そういう作品が何点もあり、人間の情報の量というのは、接触頻度と好感度が比例しているというマーケティング理論のことを思い出す。

そうして、新しい時代の作品というのは皆無で、動きすら感じられない美の世界というのはなんともつまらないものなのだと思ったりもする。(もちろん、そういう作品ばかりということでもないが、、、、それほどかというモノも多く、、、)

そのあと、病院に寄り、先日のポリープ切除の検査結果を聞きに行く。

こちらは良性で、問題はないが、毎年検査を受けるようにというご指示。

私よりきっと若いんだろうという女医さんで、髪は茶髪である。

驚くよなあ。

アタシも、整形外科医とかになるべきだったんじゃないだろうか?

女性を美女にする造詣に関わる仕事なんだから、創作活動と大差ない。

などと思いながら、既に気持ちは切り替わっていて、陶芸釜には、藝大の学費一年分(約80万円)ぐらいをつぎ込もうと思ったりもする。

もう、これは、運命であり、陶芸釜からアタシの作品は転機を迎えるから、それが必然なんだという神様の思し召しのような気さえしてくるから不思議である。

切り替え早いよなあ。

作田先生は、アタシが、版画の印刷に失敗し、二秒後に、「こういう微妙な刷りの作品は、作ろうと思っても作れないから、この味を出すのに苦心したということにしておこう」

などと失敗を成功例にすり替えた瞬間を、たまたま眺めていて、「オジャラのマイナスをプラスにする瞬間を見た。そんなに短期間(数秒)に立ち直れるというのがスゴイ。どうしたら、そうなれるんだろう?」

などという質問のような感想を口にする。

意識して、気持ちを切り替えるというのに慣れると、いつでもスっと気持ちを切り替えられるようになる。それが、ポジティブに生きられる秘訣だと思う。

悔やんでいる時間も、前向きな考えを持って進んでいる時間も同じ時間なのだから、前向きが続くほうが、お得なのだ。何時間考えても、今更合格するということはあり得ない。

であるからして、もっと、別のことを考える時間に当てるべきであり、たとえば、新しい絵の一枚でも描くことのほうに、より価値がある。

どちらにしたって、アタシは、自分の作品の保障をしてくれる人がいない、私と同じ多くのアーティストのことを思い浮かべた。

美大に行ったりしなければ、保障をしてくれる教授などの印をもらうというのは不可能である。

著作物に関してはどうなのか?

アタシの場合、出版物として登録していて、それは、当然に「自分の著作である」という強い意思に基づいて、必要な情報も含め公開するという決断をした。

それが出版というものである。

であるからして、誰かに証明してもらうという発想が間違っている。

それを、証明してもらうというのは、一体どうするのが正しかったのだろうか?

商学部の教授に頼んで、印をもらうべきだったのか、それとも、自著するべきだったのだろうか?

だいたい、電子本なのに、紙に印刷して提出というのもさ、間違っているだろう。

パソコンで見るために特化して作られているんだからさっ。

例えば、現代アート作品については、「この作品が、新しい表現にあたるのかどうか?」の調べ方や発表の仕方が解らないからもっと勉強したいと考えたのだが、そういう場合、その作品の真贋というのは、誰が保障してくれるのだろうか?

どんなに考えても、アタシの作品の真贋を保障してくれる人は思い当たらない。

誰にも頼らずに、自力で進むしかない。

そういう決意を与えてくれた時間であった。

その事は、私にとって有意義で、受験料以上の価値があったと思う。

何もかもから離れて、自由に創作をする。

人には真似のできない、自分だけの世界を持つ。

それは、受験前と、受験後と全く変わることのない私の創作の目標であり、それは、いつ手に入れられるのか、それとも、手に入れられないのかも解らない場所にある。

(まあ、試験に落ちたのは、教授のハンコがなかったせいではないとは思う。イラストレーター年鑑の編集をしていると、天才みたいな人ばっかで、アタシの絵など、イラストと呼ぶのもおこがましいぜ。はぁ。そういう人が受かるべきだよなあと実感。そういう人と並ぶわけで、アタシの作品などが受かるはずがない)

というように現実は厳しい。

もっと絵の力を上げないと。

今回、「作品を買うので、そのお金を受験費に当ててください」とお金を送ってくださったSさん、チャンスを与えてくださってありがとうございました。よい経験となりました。

結果は不合格でしたけど、私の画業に関わる重大な決意を再認識することができました。

良い絵になれば、他のものは必ずついてくる。

強い信念を持ち、また、一枚を描こうと思います。

お心遣いに深く感謝します。いつかご期待に沿えるように精進を続けてゆきたいと思います。ありがとうございました。

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