◆◆◆ 691 ★ 公募展、植物画の展覧会 ◆◆◆

2006.5.4

今日は、知人と上野の公募展へ。

まず東光展というのに行く。

チケットを持っていたのに、今日は無料デーなのだそうだ。チっ。チケット買って損したぜ。

筋としては、まあ、公募団体筋。一階はまあ見れたが、上の方は、ビミョーに落ちてゆくムード。

まあ、どんな公募展もそういう傾向だというのは最近気づいてきた。

どの絵も似ているなあという感想。

銅版画のセンセイも話されていたけど、「版画を続けていると、みんな、似たような絵になってくる、それをどう乗り越えるのかというのに個人差がある」のだそう。

でも、選ぶほう(審査員)の好みも似ているらしくて、似たような絵が並んでしまうという結果になるのだとか。なるほどねぇ。

公募展に入らずとも、事情通ってことなのぉ?

次に、頂いたチケットで国展へ流れる。

うっひょー。プラド美術館展は2時間待ちなのに、公募展はガラガラなのぉ?

この集客の差というのにも、毎回驚かされるんだよね。

確かに、ルーベンスの絵も、ベラスケスの絵も素晴らしいけどね、2時間待つ程の絵でもない。

同じ場所にある巨大絵画作品なのに、そちらは見る価値が無いという評価のようである。

自称アート好きというのも、全くいい加減である。

自称「名画好き」という名称に改めて欲しいよなぁ。

プラドは見たいけど、日本で一番活躍する可能性がある国展の作家さんたちには、興味のミジンも無い。

まあ、そういうことが、2時間待ちの、あの列を見ると理解できてくるというワケよ。

そうして、そういう価値観の中で、どうやって自分をブランディングしてゆくのか。

ま、ここが、「アート マーケティング」という話になるわけ。

国展は、思いのほかレベルが高かった。

というよりも、今まで見てきた公募系展覧会と比較すると、随分と筋の違う作品群が入選していた。

審査員の鑑識眼が違うという理由。

それからもう一つ、こういう作品の応募も集められるという格式があるということのよう。

どんなに、そういう人の底上げをしたくても、絵が来ないのであれば、入選させようがないもんねぇ。

どちらにしても、アタシの作品は入選しないと思った。笑。

何といっても、国画会主催だからねぇ。

こちらの公募団体は、来年から六本木の美術館に移動することに決まったらしい。

どちらに決まるかというのは、奥深い事情があるらしい。が、一度決まってしまうと、もう、ずーっと、六本木の会は、六本木で行われるということらしい。

テキスタイル、立体、陶芸の展示もあり、見ごたえがあった。

陶芸はパっとしなかったけどなあ。

民芸運動から来ている派なので、必然と、民具から抜け出ない作品が選ばれるという気質なのかもしれない。

それだって、河合寛次郎ぐらいの作品が見たいものだけどなあ。ムリかぁ。たはは。

目が肥えてくるというのは、舌が肥えてくるというのと同じくらい、不幸なことなのかもしれない。

アタシも、イロイロな展覧会を見てきたけれども、画壇というのには、傾向があるというのは、理解できてきた。

どんな公募展にでも、出せばヨイというものではない。

自分の作品に合った、もしくは、自分の絵のコンセプトに合った画壇に入るのでなければ、絵は成長しないということになる。

自分の尊敬するセンセイ方に、作品を見ていただき、ご意見を頂き、より高い所を目指せる場。

それが、画壇なのだとすればの話よぉ。

どんな画壇であっても、入選さえすれば、画家だと勘違いしている人も少なくないということなのだろうか?

画家というのは、絵を売って生計を立てている人。

ということである。

これだけは間違いが無く、それ以外は、かろうじて、絵のセンセイなどをしていると、多少プロっぽい。

そうして、センセイもしていないとなり、絵も売れているわけではないと、一般評価としては、やはり趣味と呼ばれてしまうのかもしれない。

どーよ。

そういえば、絹谷さんの展覧会で、彼の著書を立ち読みしたときに、冒頭に、「絵を描いているというと、趣味の人はイイわねぇ」と言われてしまう。

的な説明があり、「芸大教授にまで、趣味だと言ってしまう日本人の芸術への理解の低さ」に愕然としたよなあ。

芸大教授でも、「趣味の人はイイですねぇ」などといわれてしまうのだから、アタシの絵が、趣味と呼ばれてしまうのは、まあ、当然といえば当然だよねぇ。汗。

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