◆◆◆ 650 ★ 今井 繁三郎-2 ◆◆◆

2006.3.10

ちと、メモの内容は、支離滅裂気味ではあるが、アタシが、この評論家のセンセイのコメントに感激したというのには、理由がある。

彼は、もう少しスピーチの練習をしたほうがいいかもなあと思いながら、彼の発言の本質というものを、アタシは、聞き逃さなかった。(テレビ出演でキンチョーしていただけかもしれないが)

彼は、今井の作品解説を通し、何を持って、芸術を評価しているのかということを、キチっと、伝えてくれたのである。

まず、作家とはということである。

●自由に自分の絵を描き続け、何にも拘束されずに、自らが発表する。

●絵を描き続けていれば、自分の絵が出てくる(こともある)

●絵の幅が広い。今まで自分が手に入れた画風などを全てぶち壊し、いつも、新しいチャレンジを繰り返している。

→実は、絵を見る人は、この作業について、とても注目しているのよ。ここは、重要。

新しい作品、想定外の作品に触れると、それがまた、嬉しいという、そういう評価者が多いということになる。ま、筋的には、常識よね。うん。

そういう観点を持ち、画廊に行ったり、美術書を読んだりすると、一気に、絵の事が理解できてくる。これはホント。

日本の美術収集は、どうしても情報から入るので、作品の評価が良ければ、絵が良いと勘違いしている人は多い。

それは、評論家のセンセイが発行している本にも、問題があるということになる。

別に、彼の本を否定しているということではない。

少なくとも、彼には、絵を見極める力があるというのを、彼の解説を通し、アタシは、体感できたからである。

それと、これ(雑誌のサバイバル事情と、鑑識眼)とは話が違うということである。

収集家の常識としては、「貸し画廊」などに、自分で金を払って展覧会している人の絵など、見に行ったり、買ったりはしない。

なぜかといえば、貸し画廊の展覧会は、美術品という評価に欠けると思われているからである。実際は、そういう話だけでもないとは思う。

作品を見てみなければ、評価は出来ないでしょう。

その作品に価値があるのか、無いのかというのは、買う人が見極めなければならないという話である。

見極める力がないので、人の情報に頼って作品購入をしている収集家が多いということに他ならない。別に、売れれば勝ちなんだけどさ。

見てもいない作品の芸術性について、軽々しく、口に出すなという話なのよ。実態としては、物凄く完成度が落ちる作品がほとんどで、その事実に衝撃を受け、行かなくなるという別な問題もあるんだけどね。

趣味の発表会というのも混じっているワケだしね。

銀座で個展を開いたからといって、それが、芸術家の作品なのか、日曜画家なのか、はたまた、趣味なのか、練習中なのか、そういったことまでは、実際を見ないと解らないということになる。

逆に、企画展と呼ばれる、画廊がイニシアチブを握り絵を選んでいる展覧会は、ハズレがないし、見ていても、心が動く場合が多い。画廊の鑑識眼というのに頼って、作品を見るようになっているという話である。

デパートなどよりも、よっぽど筋がヨイ場合もあり、貸し画廊のハズレばかりに当たると、もう、企画展しか見なくなってしまう。

まあ、そういう構造があるという話よ。

現実を無視することはできない。

評論家センセイの話に戻ると、彼は、更に、いくつかの鑑賞のキーワードを残してくれた。

●色もキレイで、透けている(透明感がある)

●線が力強い、自由さがある

●意思を持ち、独自の世界を模索し続け、晩年手に入れた。(外国の作家は、中年期に、充実した作品を残し、晩年画風が変わらないという人が多いらしいけど、日本の場合、最晩年に、やっと、独自の世界が開けてくる画家がいるという特徴があるとも話されていた。)

晩年、死が惜しまれた作家であった。

という評論家センセイの一言は、本当に辛らつだとアタシには思えた。

それでも、惜しまれなかったよりは、ヨカッタに決まっている。(独自の世界を)一生手に入れられない作家ばかりだという事実が、この一言に潜んでいるのである。

まあ、画壇のゴタゴタから離れて、田舎に引っ込み、自分の絵を模索し始めたという部分は、アタシも、解らないでもない。

現実として絵が売れなければ、自分の生活というのは、画壇頼りという画家ばかりになる。

そうすると、取り分の話でもめたり、上納してくれるお弟子さんに優先して賞を出したりという、本来の絵の価値から離れた評価を与えたりという話もでてくるわけでしょう。

アタシは、画壇に入ったことは無いから、よくは解らないけど、人間が集まると、だいたい、そういう話になるものなのよ。それは、書道でも、華道でも、茶道でも、俳句でも同じバトルがあるワケなの。

それでもね、画家の集団だからね、圧倒的な絵の力が全てを解決してくれるわけ。他のお稽古事とは、ちと筋が違うのよね。

そのセンセイがご存命中のときは、何とかなったとしてもね、その後が大変ということは多いと思う。

金の計算できない画家さん多いしね。

まあ、仕方ないよね。絵の具の調合の方が優先順位が高いのだから、金の話など、いつまでたっても、誰も教えてくれたりはしない。周りは全員、絵が売れなくて金に困っているワケだしね。そういうのが普通だと、商売としての感覚は麻痺してくるんだと思う。

アタシは、画壇を否定しているということではない。

売れない画家が集っても、みんな自分のことで精一杯なので、アタシの絵を売ってくれたりはしないということが理解できているだけである。

少なくとも、審査に携わるセンセイ方は、芸術のことは理解できていると思うことは多い。それは、入賞作品を見れば解る。入選はともかくとして、どの会も、大賞を間違っていることは無い。

それは、圧倒的な、絵の力の世界であり、潔い世界なのである。

評論家のセンセイは、こうも言う。

「彼(今井)の展覧会には、イロイロな(新しい画風の)作品があるので、見に行かなくては解らない。そういうトキメキがある。」

彼のように、大量の絵を見ている人は、ポストカードの一枚の絵を見て、展覧会の展示品まで推測できてしまうという話なのよ。

ああ、この人、またこの絵だな。行かなくても、評論位書けてしまう。

足を運んだとしても、どうせ、去年と同じ絵ばかり並んでいるんだろう。だから行かない。コメントのしようもない。

という人がほとんどなのだという、実態が、裏にあるわけよ。

それだって、独自の画風がある作家さんだって、イッパイいるはずなんだけどさ、同じ絵ばかり、何十年も見たくないって話みたい。

彼の展覧会には、2回行ったけど、あとは、毎度という感じなので、取り上げる必要もない。的結論ってわけよ。

このページの最初の項に書いた、「意思を持ち、独自の世界を模索し続ける」という創作姿勢を、見るほうは、物凄く重要視しているということになる。

アタシは、何て胸のすく解説なんだろうと、本当に感激した。

だから、日記に書いておこうと思ったのよね。

自分のアタマの中にモヤモヤしていたものが、整理されたような気持ちになる。

だからといって、自分が作れるのかどうかというのとは、全く違う話なんだけどね。

Established 1998 Rica's Bar WEB SITE & Since 2003 Atelier Ojara.

Copyright (C) All Rights Reserved by Rica Ojara.