◆◆◆ 637 ★ 書の至宝展 ◆◆◆

2006.1.14

混む前に行こうと決意して、上野まで。

国立博物館の書の至宝展を見に行く。

うっひょー。

平日午後なのに、30分待ち。

北斎は理解できるけど、「書の至宝」だよ。

書の展覧会なんて、見て面白いと思ったことは一度もないぜ。

まあいいか。

こんなに並ぶのには理由があるはずである。

そうして、展覧会は、激混みの上、暗かったり、展示品が小さかったりして、何一つ見ることができなかった。

嫌、ゆっくりとまあ、見たりできる作品もあるのだが、その作品がまたひどかった。ようするに、人気の無い作品は、ガラガラということになる。

見ている人は、どうやって、人気と人気じゃないのを見分けていたのだろうか?

よくもまあ、こんなにひどい書を、あのように賛辞できるものだと、国立博物館の学芸員の文才に、頭の下がる思いであった。

それにしたって、どーしてこんなに集客できたんだろうか?

嫌まあね、書のことが、ハッキリ解るってことでもないのよ。でもね、1500円払って、30分待ってみるような展覧会ではないってことよ。

確かに、隣の東京都美術館では、書の公募展が開かれている。

こちらで、書の展覧会を見た方が、博物館に流れてきているということは考えられる。

が、書の展覧会の客など、ほとんど見たことが無い。

という事実を考えると、書の公募展ということが、激混みとは、アタシにはどうしても信じがたい。

結局1時間しか見れなくて、閉館時間になってしまう。

閉館20分です。などというと、それまで熱気に満ちていた会場は、急いで見なくてはという心理で、ガラリとする。

そんなもんで、2週目に入っていた私は、先ほど見れなかった人気を拝見することに。

まあ、ヨイ書も、無いわけではない。

それでも、学芸員の解説程スゴイ書とも思えなかった。

個人的には、去年見た、読売書法展の方が、よっぽどグッドな書が並んでいたという感想。

一文字も読めなくても、書も、大量に見ると、ヨイか悪いかは理解できてくるものなのである。

その後、不忍画廊の、池田満寿夫展へ。

こちらに置いてある筋の方が、書の至宝よりも、よっぽどマシだけどなあ。あそこにあったやつは、一枚も欲しいと思わなかったけどなあ。紀貫之伝とかいう書もあったけど、きっとニセだと思う。笑。ニセじゃなかったとしても、一文字も読めなかった。

であるからして、要らないぜ。

画廊人と、書の至宝にはガッカリした話をしていると、奥からパパさんが見に来て、その話で盛り上がる。「イヤア、あれは、酷いね。新橋(東京美術倶楽部)の方がよっぽど優れた品が並んでいましたよ。」

などというコメント。

鑑識眼のある人には、作品のコメントに左右されずに、自分で価値を判断できる能力があるということになる。

何でも、書の至宝展は、毎日朝日新聞に、コラムが載るのだそう。そんで、「稀少だ」とか、「もう、一生見れない」などと書かれているため、皆さん、行かなくては損をするという気持ちになるらしい。

なるほどねえ。

あんなに偏っていると評判の新聞を未だに読んでいるというのが、もう、人生の取捨選択ができていないってことだもんねぇ。笑。(読んだことありません。ゴメン)

しかも、新聞に載ったということだけで、価値があると思わせる情報操作ってことなんだろうか?

ということは、並んでいた人は、新聞の読者様ってことになるよね。

情報の取捨選択できない受信者が、メディアがヨイと言えば、並んでしまうという、日本の売りやすさというのがココにある。

いい国だぜ。

そうして、そんな展覧会に感激した人続出(たとえば、バイト先のセレブ君とか)で、その他の書の展覧会は無料でガラガラで、まともな作品も無いわけではないのに、どうしてそっちには足を運ばないのかを不思議に思う。

不忍のパパさんも、「画廊には、人が来ないのにね、(あんなにヒドイ展覧会でも)30分待ちだもんね」(価値を理解できない人が多くて残念だを省略)

と、今日は愚痴っぽかった。

国立博物館が、B級美術品を賛辞するから、見る側も、書く側も、あの程度でヨイのだと勘違いしてしまう。

諸悪の根源は、ここにある。

アタシも、国立博物館に日参し、あの、学芸員の、B品美術品を一流品だと思わせる賛辞のボキャブラリーを増やしたい。

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