◆◆◆ 577 ★ フリーダ・カーロ、里中満知子センセイのお言葉 ◆◆◆

2005.12.10

フリーダ・カーロの番組を見る。

この番組を見るのは二回目。

里中センセイのコメントは、アタシの壷にハマルのよ。笑。

気になったので、書き留めておきます。

里中センセイによると、(フリーダの、直接的な感情表現の激しい作品について)

まず、(作家には感情の)表現の仕方というのがあって、それは、

●くるんじゃう人

●表に直接出す人

に分かれるのだそう。

センセイ的には、「作家なので、自分の絵は、(人に解るかどうかは解らないが、自分では、)石コロを描いても、自分がでてしまう。

その(絵に自分が出てしまう)恥ずかしさ、いたたまれない気持ちというものもある。

そんな中途半端なことで、はすかしいと思うのであれば、(いっそのこと感情を)全部ぶつけちゃえと思う。

全部をさらけ出したような絵を描いても、絵の向こう側に、表面に現れない、何かが絶対にあり、その自信が(フリーダには)あったのだろう。

と話されていた。

アタシが気になったのは、「石ころを描いても、自分の絵だと解る」

という、独自の世界である。

アタシも、自分では自分の描いた貝殻を、他のひとの描いた貝殻と見間違うことは無い。

それは納得。

問題は、その後である。

「自分の絵が表に出ると、恥ずかしい」というくだり。

本当にそうなんだろうか?

あれほど特徴のある絵を描いている漫画家さんだもんなあ。

絵を見て、「ああ、これ、里中満知子だ。」

と思われる作品を作れるというのは、作家冥利に尽きるというものである。

逆に、そうでなければならないという確信がある。

ま、アタシの感覚なのかもしれないけどさ、多くの作家さんは、気づいていると思うけどね。

例えば、「さくらももこ」であったとしたって、絵を見れば、さくらももこだと解る。小学生だって、手塚治虫と間違えたりはしない。

あれかなあ、絵の話じゃなくて、内面表現の話のことだよなあきっと。まあいいか。

もうひとつ気になったのは、「(心の傷、内面を)すべてをさらけだした絵であっても、絵の向こう側に、表面には現れない何かが絶対にある」

という言葉である。

確かにね、作家本人にしか解らない、絵の意味というのがあるのよ。

表向きは、「花瓶に顔を描いてみたら面白いかなと思って」などと言われている花帽子の女にしたってさ、薔薇の花にはね、意味があるものなの。

着飾った女が、薔薇の花の意思をかぶって(持って)、前に進もうとしている絵なわけよ。

例えば、白い薔薇であれば、潔白とか、純白とか、真実とか、(遠回しにはアナタを信じて待つ)とかね、そういう意味があるし、赤い薔薇であれば、情熱の愛とかね、黄色は、決別とかさ、薔薇そのものにも、女そのものにも意味があるわけで、別にくどくど説明する必要もないとアタシは思っている。

花帽子でさえその程度の意味が隠れているわけだからさ、フリーダの絵にも見えない何かあるはずだという意味らしい。

どーなんだろうねー。

素直な人だったんじゃないかなあと思うけどなあ。メキシコの教会は、絵の奉納を受け付けてくれる。信者の描いた願い事の絵や、痛みの絵を奉納するのである。

痛みを神に、絵で伝えることで、救われるという価値観があるのだと思う。

フリーダは、神様に自分の痛みを伝えたかったんじゃないかなと、個人的には思うけどね。

絵の本当の意味というのは、作家にしかわからないということである。それは、前から感じていることのひとつである。

里中センセイは、「ドロドロの恋愛も芸術の糧」と話されていた。

あの客観的な視点というのは、毎回本当に驚くし、笑わせていただく。

嫌、まあ、確かにそうなんだけどさ。

ドロドロをネタに、漫画とか、小説というのは書かれるわけだからね。笑。

そうして、そういう話を好む観衆というのが裏側に大量にいるということまで見えてくる。

フリーダだって、オットが妹と浮気したりしなければ、あんな絵も描かなかっただろうし、その激しく不幸な生涯が、後世、テレビ番組になって流れることもなかったと思う。

ゴッホの人生もそうだけどね、人の不幸や、激しい人生というのが、作品と一体になってる所があるよね。

でもまあ、作品が鑑賞に堪えられるというのと、大量に残っているという事実には間違いがない。