◆◆◆ 569 ★ 個展二週目-2 ◆◆◆

2005.12.3

貝殻の絵を描いていて思うのは、まあ、多少は見れるようになってきたけどね、作っていて、楽しくないんだよね。

まだ、何も見ないでサラサラと描く、猫の絵の方が、描いていて楽しい。

そういうことになる。

そうして、この絵は、アタシの絵という気もしない。誰が描いたって、こんな形になるということだ。

絵画とイラストレーションの違いというのは、ここにあるのかもしれない。

イラストなら、この程度描ければ、お客様は怒らない。

絵画作品となると、「こんな(写真のような、動きのミジンもない)つまらない絵を描きやがって」という話になる。

貝からであっても、「オジャラ絵でございます」という、作家のオーラが出ていなければならないのである。

それが、作家の作品というものだ。

実はね、それは、イラストレーションであっても、同じなのよ。

貝殻であっても、オジャラ絵でなければならない。だけど、この絵は、アタシの絵だと解らない。だから、駄作。そういうことになる。

こんな絵、作家としては、売ることすら恥ずかしい。

ある意味、天使の絵というのは、オジャラの天使でございますという絵であり、あっちの方が価値が上ということに他ならない。

素人は、貝殻を選ぶが、収集家は、天使を選ぶ。アタシは、筋系画廊からのプロデビューを目指しているのだから、当然に、描く絵は、独自の世界を目指している。

まあそういうことになる。

今日は新聞を見たという方が訪ねてくださった。彼は、ずいぶんとゆっくりとしていった。

そうして、何の躊躇も配慮もなく、好き放題を言い放って帰って行った。

 

絵の趣向というのは、ひとそれぞれである。

気に入った絵を買えばよい。

そんなこと、アタシ本人に話して、何かイイコトあるんだろうか?(まあ、こういう人も、実は結構来るんだけど、社会と関りが無く、人との対話も出来ない人なのかもしれない。と思う事は多い)

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この前来て下さった筋の方は、私のドローイングはとても良いと言ってくださった。そうして、やっぱり一生懸命に細かい所まで見てくださって、また来ますと言って帰っていった。

イロイロな趣向の人がいるから、イロイロな絵が存在するのである。

 

人真似のパクりみたいな絵を自分の絵でございますという顔をしている作家が、世の中でイチバンついていない。

作家なのだから、自分の絵を描く。

そうでなくてはならない。

人を集めることに必死になって、自分の作品を見失っては意味が無い。

それは、入選するために、媚びた絵を描いたり、票を得るために、共感句を詠んだりするのと同じことであり、一時的には満足は得られるかもしれないけど、100年先には忘れられてしまう。

アタシが、彼に、どうして、こういう絵を描くようになったのかを何度説明しても、彼が理解してくれることは、とうとうなかったのが残念である。

その人は、本当に不愉快な方で、最後には、仏のアタシも流石にアタマにきて、

「私の絵であっても、応援してくださる方はたくさんいますよ」と答えるが、彼は、最後まで、私の絵は気に入らないようだった。

それでも、帰宅途中下車して、貴重な時間を割いて、わざわざ、個展を見に来てくださったのだ。感謝しなければならない。ありがとうございました。またよろしくお願いします。

今日来て下さったのは、この方一人であった。彼の方が、期待していた絵ではなかったので、きっと、もっとガッカリして、帰ったに違いないのである。

 

それでも、何とか、個展に人がもっと来てくれればよいのにという彼の気持ちは、会話から伝わってきて、見ず知らずの人が、私の展覧会のことを心配してくださるというのが不思議な気持ちになる。ご心配、感謝します。

でも、冷静に考えれば、外まで行列という展覧会は、ルーブル、ゴッホ、北斎の展覧会だけである。

他の展覧会は、どれも閑散としている。

だから、アタシの展覧会が閑散としているのは、別に、おかしなことでもないだろう。

個展を開くというのは、イロイロなことがあるもんだよなあ。

ウノアキラ先生の画集を開いたら、少し気が楽になる。私の進んでいる道は、間違っていないと再確認できる。

埴輪描いても、貝殻描いても、「オジャラの絵でございます。間違いございません。キッパリ」

そういう絵になれば、地元の人が、アタシの絵が好きになれなくて、千住の個展では誰も人が来なかったとしても、仕事は必ず来る。

それが、プロの世界というものなのよ。

まだ、それ程の絵でもない。

だから、また一枚描くぜ。