◆◆◆ 536 ★ 作品の製作と記録 ◆◆◆
2005.10.26 |
秋も押し迫り、作品は着実に完成しつつある。
この筋の絵では、一応、白目を入れたときが完成という気持ち。 まあ、白目入れる前に売れちゃうこともないわけではないのだが。 気持ち的には、もう少し動きのある作品にしていきたいんだよね。 昔の肖像画のように、デーンと、鎮座しているだけでは、絵画ではあるが、芸術ではないということのようだ。 これが、ピカソの絵のように、動いていると、芸術ということになるらしい。 芸術活動というのは奥が深い。 パソコンの調子がすこぶる悪く、古い写真やなにかをDVDに焼く。 もう、使うこともないかもしれないと思うと、全くムダなことをしている気にならないワケでもない。 まあ、生きていることそのものがムダだもの、仕方ないよね。 しかも、最近は、イモムシの写真ばかり。爆。 |
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銅版画や、油彩は、新しい作品が増えたので、パソコンから消去する前に、また、画集にまとめておこう。 画集にして、CDに焼いておけば、探すのは比較的カンタンなのである。 何万枚もある画像のなかから、一点を探すというのは、不可能だからね。 作家の作品というのは、本物かどうかを識別できるかどうかが、マーケットを支配する。 オリジナリティーのある作家さんの作品が、高値で売買されるのは、扱う人(画廊)が、ニセをつかまされにくいからに他ならない。 ニセを扱うというのは、画廊の致命傷になる。 作家本人をプロデュースする場合を除いては、どんな画廊が扱っていたのかとか、作品が、本当に、本人のものかどうか(それは、図録などで確認できると、かなりの根拠になる)。 本物だという理由を、素人にも納得できる方法で証明できる作品だけが、将来に渡っても高値で売買される可能性があるということになる。 アタシが、こんなに下手な絵なのに、画集にまとめているというのは、その一点である。 絵は、将来的には、もっと上手くなってゆく予定だが、現状でも、よい絵は、どんどんと手を離れてしまっている。 将来、第三者が、私の絵かどうか、確認したいということがでてくるかもしれない。そのときに、電子図録に収録されていれば、かなりの確立でホンモノかニセかを識別することが可能になる。 |
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ピカソや宗像志功の贋作が多いのは、絵に特徴があるからに他ならない。 宗像志功の作品については良く解らないが、ピカソなどは、その作品を記録した膨大な図録がいくつもある。 そうして、その中に、収録されているか否かというのが、ホンモノかどうかという証拠になっているみたい。 まあ、あんなに沢山描いた人だからね、載り切れてない作品もあるかもしれないけどね。 そういえば、贋作をテーマにしたテレビ番組で若い(無名の)アーティストに、「アナタの贋作が世に出回ったとしたら、どう思いますか?」 とインタビューすると、皆さんこぞって、「誰か描いてくれないかしら?(贋作が世に出回るというのは、有名作家だという証だから)」という答えだったのが笑える。 アタシの作品に似た、台湾の薔薇の花の群というのを、是非拝見してみたいぜ。 |
アタシの、ネットでの作品露出が多いのは、近くで見ると、全く異なるマチエールを持ちあわせていて、カンタンには真似できないということに気づいているからである。 |
例えば、作家が死んだ後どうかという話になる。 熊谷守一の図録は、作家の油彩全作品を掲載した図録というのが存在する。それは、専門用語で、レゾネと呼ばれている。 レゾネが存在するというのは、例えば、似たような絵があったとしても、この図録に載っていなければ、それは、ニセですよ。 という、判別に使われる。 それでは、レゾネを見ながら作った、全く同じに描いた贋作というのはどうだろう。 表面上は同じに見えても、並ぶと全く違うということも無いわけではない。 それは、作品を作る過程で、他人には真似できないような、独自の技法を用いているという場合である。 熊谷の作品は、全くそういう域で、その独特のフォルムも含め、絵が上手いというだけではダメで、誰にでも作れる作品ではないというのが理解できるのである。 そういう、「フォルムにも特徴があり、さらに、本人でないと作れない独自の技法を使っている」 という作品であると、ホンモノである確立は高くなる。(たとえば、お友達の八木原センセイなんかは、そういう絵なわけよ。だから、ウッヒョーなわけ。アタシが、ウッヒョーというのには、そういう物理的なことが理解できている上に、そういう域の人はほんの僅かだということも知っているからなのよ。アタシが、実物を見に展覧会に足を運ぶのは、写真はイイけど、実際はどうなんだろうというのを確認しに行っているワケよ。おほほほほ。) そうすると、死後、愛好の人たちは、(ホンモノである可能性が高いから、)高値であっても安心して売買できる。ということで、そういう作品を好むようになるわけよ。 アートのマーケットには、依然、真っ当ではない輩も大量にいるということなのだろう。 |