◆◆◆ 516 ★ アーティスティックマーケット一日目 ◆◆◆

2005.10.1

朝9時頃にイベント会場入りする。

そうして、この前の個展のときに自宅に持ち帰っていた、完成していたが、売れ残っていた作品を展示場に並べてみる。

売れ残った作品というのは聞こえが悪いが、絵が激しすぎて売れなかったというだけである。

そうして、絵の技術がアップしてくると、稚拙だった頃の絵と並ぶと、差が歴然で、一生売れることの無い絵である。

アタシの、絵の成長過程を知る上では悪くない資料ではある。

とりあえず、乾燥した作品を並べると、会場はイッパイになってしまい、この程度でイイヤという気になってくる。

一旦アトリエに戻り、放哉なんかの絵を持ち込んで、展示は終了。

ライブペイントをスタートする。

ライブペイントは、どうということもなく、母校のシンボルである楠木を中心に、手品師がハトを出しているところと、バーバラが踊っている絵を組み合わせて描く。

が、バーバラが逆さに描かれていたことと、木がサボテンみたいなフォルムだったせいで、よく解らないと申し出る人が殺到し、描いているさなか、苦情が舞い込むという事態になってしまう。

しかしながら、「よく解らない」と言われるほうが、「写真のような絵だ」と言われるよりは、何倍も素晴らしい。

「よく解らない絵を描く」というのは、ある種の才能であり、描写ばかりをしている人には理解できない作品なのだろうと思う。

別に、それが芸術だと言っているのではない。

絵を描いていて、「これはヒマワリですね」などと言われるよりは、よっぽどマシだということである。

「写真のような絵」と「良く解らない絵」の差は、「よく解らない絵」というのは、「写真のような絵」を包み込む形で存在しているということである。

うーむ。表現が解りにくいかなあ。

それは、「写真のような絵」がチャーハンで、「よく解らない絵というのは、それを包み込むオムレツ卵のようなものだということである。

現代アートも同じこと。

印象派や、今までの絵画形式というのがチャーハンで、現代アートというのは、それを包み込む半熟薄焼き卵なのである。

オムライスを頼んだ人だけが、その、卵と中のチャーハンを混ぜた味を楽しめるという構造なのだ。

チャーハンを頼んだ人には、その味は一生味わうことが出来ない。

ま、そういうことなのだ。

それは、アナタに、現代アートに進むように勧めているということではない。

オムライスの味を知った上で、チャーハンとの差を述べよと言っているのである。

それは、好みや、主義主張の話であり、何が何でも、お子様ランチでなくてはならないという人もいるはずである。

今後、アナタは、再びチャーハンしか食べなくなるかもしれない。

が、一度は、オムライスも食べてみろという話である。

なんだか、椎名誠的説明。(→読んだことありません)

そうだよ、東海林サダオ風だろう。どちらかといえば。

みたいなね。(どちらもオットの愛蔵書)

明日、もう一枚にどんな絵を描くか考える。

千住のマスコットジュジュちゃんと、風船を持った子供達が行進している絵はどうかなと思う。

ジジュちゃんは、ラッパも吹けるので、天使と一緒にラッパを吹くという案も捨てがたい。

パフォーマンス用の絵は、見ている人が楽しめる作品にしたい。

そういう気遣いがないと、作品というのは、本当に独りよがりになってしまうのだ。

見てくださる方がいて、そのときに、対話というのが始まるのだと気づかされる。

対話の無い絵というのは、本当に毅然としているか、どうしようもないかのどちらかである。