◆◆◆ 448 ★ 岡本太郎・紙粘土作品 ◆◆◆

2005.8.3

安定感がめちゃくちゃ悪い、マッシュルーム型のキャラ。

わざとグラグラさせている。

朝から岡本太郎の番組を見る。

なんでも、昔自宅だった、青山の建物を公開しているのだそう。

その通りは「爆発通り」と呼ばれているのだそうだ。

冒頭、『「何だ、これはっ」と言いながら、惹きつけられるもの、ウワーッと燃えたぎるようなもの。これが本当の芸術だ。

作品は爆発しないんだけど、心が宇宙になって飛び散る。これが芸術だ。』

と氏は語る。

岡本太郎よ、大きいぜ。

天使のトルソ。

トルソに羽をつけて、やっぱ、羽とくれば鳥なので、鳥と合体。

その後、日本画壇を否定する作品なども発表。

決裂していたワケでもないと思うけどね。その辺が上手いよね。ちゃっかり審査員とかやってるもんね。

「評論家が、自分の作品に、良いコメントしか書かないので、今度は無意味な作品を作ってやろう」

と意図して、無意味な作品を描いたこともあるみたい。

なるほどねえ。

あーたね、無意味な作品を描こうと思ったって、なんとなく意味というのはついてきてしまうものなのよ。

だからね、無意味な絵というのは、作れる人は僅かなの。

その、「無意味さ」が解らないと、作れないワケでしょう?

無意味を理解するところからはじめるワケなんだけど、無意味が理解できないわけよ。

フツーの感覚って、そーいうもんなわけ。

だから、あれほど沢山美術の番組を持っている司会者であっても、「作者が無意味だ」と言っている創作物にたいして、評論家に、「どんな意味があるんでしょうか?」とくどくど聞いちゃうわけよ。たははは。

お笑い番組みたい。

バーバパパみたいになっちゃうんだよね。

ダルマなのー?

太郎は、「芸術はもっと身近な場所にあるべきだ」という理由から、壁画制作なんかも大量に手がけていた。

なるほどねえ。

アタシもやりたいよなあ。

アートは、もっと身近な場所にあるべきだと思う。

あるべき場所は、美術館ではない。

じゅんさんが、「岡本太郎の絵は安い」とアタシに教えてくれたことがあったけど、芸術性が低いという理由からではないと思う。

作品が巨大すぎて、買える人がいないとか、安くても、大きい作品を展示できる仕事を請け負ったということに他ならない。

号いくらという価値が間違っているのである。

大島さんみたいに、「俺の絵は号3万円だ」と言っていたって、一枚も売れずに生活に困窮しているのであれば、その値段は絵に描いた餅であり、本当の作品の価値ではない。

販売価格というのは、あくまでも、お客様が買える金額に設定されていなければならない。

もし、画壇の決めた価格で絵が売れないのであれば、画壇価格が、市場と定離しているというだけの話である。

そうして、飾られない絵は、存在しないのと同じだとアタシには思えるのである。

 

イガイガ系。

直立できるのか心配。

そんなこんなで、朝から濃い番組を見た上に、生ダニークンを見たせいで、今日は紙粘土の日となってしまう。

やっぱ、「何がなんだか解らない作品」

これだよねーっ。などと思いながら、結局全部使い切ってしまう。

軽い粘土は、陶芸用の粘土と比較して物足りないんだよね。

軽すぎて安定感悪いし。

それでも、何がなんだか解らない作品というのは、作るのは簡単ではない。

どうしたら、「何がなんだか解らない」と、見た人が思うのか。

という風に、「解らない」ということを考えないといけないからである。

アタシも、ローリーを見て、頭が壊れつつあるぜ。

皆さん、何がなんだか解らない、無意味だけど惹きこまれる。そんな体験をしたい方は、初台駅前のオペラハウス4階へ、足を運んでみてはいかがでしょうか?

これからのアーティストに求められる資質は、自分の作品をグラフィックデザインにまで昇華できる能力と、何がなんだか解らない作品を作れるということのようである。

オジャラよ。完全に壊れてるぜ。

たはは。

今日はクレイちゃんの色塗りだわあ。