◆◆◆ 373 ★ 午後はアトリエ ◆◆◆

2005.5.22

最近、AMは自宅でペン画、午後はあとりえで油彩という日が増えてきた。

あとりえは、もう油彩でイッパイになり、他の作業が出来ない状態というのが一つ。

リトグラフのポスターを作らなければならず、場所をあけなければならないと言うのが一つ。

リトポスターかぁ。

何枚作るかなあ。

今日は天気が良いので、アルミ板にサンダーでもかけて乾燥させるかなあ。

ぼんやりしていると、カンバスに、余り絵の具で描いている。

あ゛ーっ。

この絵がバラになる日は近い。

ペン画のような力のある絵にはまだなっていない。

何が足らないんだろうなあ。

同じ絵なんだけど、細かい部分が行き届いていないのである。

そういえば、この前、額縁屋に行って、置いてもらっていたアタシの絵を回収してくる。

もうすぐ閉店するので、昨日から、閉店セール実施中だからである。

額縁と一緒に安売りされるとたまらないもんねえ。(もともとが安いんだしさあ)

そんでもって、「三岸節子展を見て、アタシの絵には、魂の叫びが足らないということが解った。何も叫んでないもんなあ」などと話すと、額縁屋の女将爆笑。

笑うところじゃないんだけどなあ。

バラの絵は、着々と出来つつある。

やはり、仕立て直すと、構図は、多少良くなる感じ。

今回は、パステル調にも挑戦しようと思ってるのよねぇ。

少しタッチが激しいので、もう少し落として、やさしい絵に仕上げたのも作ってみようという考えである。

おほほほほ。

んでもまあ、最初は、ヌードの絵を描くと思う。

失敗したらバラに描きかえる。

それが、アタシの選んだ道だからである。

絵がホンモノであれば、その絵は、必ず世に出る日が来るし、もし、出ないのであれば、力が足りないということに他ならない。

それ以外の何ものでもなく、イイ絵はゼッタイに世に出るのである。

売れないということは、自分の努力不足ということなのだ。売れる絵が描けるようになるまで、絵を描き続けて、力をつけるしかないのである。

テレビを見ていると、「芽が出ずに、諦めてしまう」という人も沢山登場する。

画業というのは、金との戦いなのだ。

絵がある程度の値段で売れるようになるのには何十年もかかってしまう。

それまでに、金が続くのかという話のようだ。芽が出るのか出ないのかも解らない。

絵の勉強をした人の中には、自分には才能がないと、自ら気づく人だっているらしい。

どんなに描いたって、芽が出ないという人だって多いのだ。

そういえば、この前、片岡球子のテレビ番組で、彼女は、美術教師をしながら、絵を描き続けていたんだけど、あるとき、尊敬している画家の方に、「絵を描き続けなさい、そうすれば、きっと、何かが出てくるから、辞めずに続けなさい」と助言を受けたことがあったのだそうだ。

確かに「出てきた」よなあ。

諦めないことかぁ。

やっぱ、金次第だよねー。たはは。

金が無いと、絵を描き続けることができないもんなあ。

絵が売れたら売れたで、事情は変わってくる。売ろうとして作られる絵は、絵が荒れてくる。

売れた絵ばかりを描けば、飽きられるし、新しいコトにチャレンジして画風を変えれば買ってもらえない。

売れてきた新鋭作家の多くは、その、どちらかで絵がダメになって、評価を下げてしまう。

個人的には、新しいことにチャレンジし続けた方が、芸術家としての信念は感じるけどね。

売れなきゃ食えないのよね。

画廊にしてみれば、知名度さえ上げてしまえば絵は勝手に売れる場合が多くて、荒れていようが、落ちていようが、全くダメな作品であろうが、どんどんと描かせて儲けられるうちに儲けようと考える。

そういうコトに気づかないお客様の方は、不当に高い値段をつけられた、美術品と称される、ずいぶんと落ちた品をつかまされて、損をする。

それはまるで、売れる作家に、急いで文を書かせて、くだらない作品ばかりを出版し続ける出版社と同じなのである。

片岡球子や、三岸節子は、売れていても、作品を下げないで、自分の世界を築こうとして精進を重ねた人だと思う。

何だかんだいって、イイ絵を残した人だけが名を残せるということなのだ。(美術館には、そういう人の絵が並んでいるわけよ。納得。)

眼科のドクターが、「(手術は)結果が全てなんです。(結果がよければ、患者に文句は言われないし、いいがかりをつけられても、裁判に勝てる)」と話してくださったのを思い出す。

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