◆◆◆ 348 ★ 佐野繁次郎、三岸節子 ◆◆◆
2005.4.21 |
佐野繁次郎の展覧会が、東京ステーションギャラリーで行われている。
チケットを頂いたアタシは、彼のことは知らなかったが、展覧会に足を運ぶ。 もう、最初の展示室で、アタシは気絶しそうになっていた。 うっひょー。 なんて力のある絵なんだろう。 特に、入り口近くに数点あった、油彩の裸婦のスケッチは、透明感、独特のタッチ、フォルムと、申し分の無い出来具合であった。 日本にはスゴイ人がいたもんだぜ。 何も知らないアタシは、これから、イロイロな作品に触れることができて、幸せも大量に残っていると思うと、得した気分である。 展示室は全て3周ほどし、ゆっくりと、近くから、遠くから、行ったり来たりしながら見る。 彼は、装丁の仕事なんかもしていて、染物の古布のコラージュの作品などは、アタシもやってみようと思わずにはいられなかった。 内心、急いでいるときの、手抜きだよなあと思いながらも、藍染の美しさというのには、全く驚かされる。 ギャラもそれぞれなんで、それに見合った仕事ってことなんだろうか? |
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彼の展覧会で、既に、ノウミソが容量オーバー気味になってしまう。 図録の写りが悪くて、購入は見合わせる。 図録と実作品は、似て非なるものであり、彼の作品は脳裏に焼き付けた。 その後、不忍画廊さんで、素描展を見る。 有名作家さんの素描が並び、売れ具合もそこそこ。お客様がひっきりなしに入ってきて、あれこれ、作品を買い、去ってゆく。 恐るべき集客力。 そうして、作品を頼んだ人が、絵を取りに来て、そちらも拝ませていただく。 カワイイぜ。 あの絵は、一体いくらだったんだろうと思いながら、あまりの混雑で聞けずに次の展覧会に流れてゆく。 不さんでは、ブラックの版画が入っていたという、お高そうな額を2000円でゲット。今度の展覧会で、この額は中古額なので、お安くしますといって売られるに違いない。 額縁というのは、絵よりも高い品なのである。 |
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この後、三岸節子の展覧会。 今日は、やっぱり、佐野さんの絵しかノウミソに刻めない。 佐野さん圧勝。 濃い絵を見すぎて、気絶しそう。 三岸節子さんは、若い頃に画家になることを決め、オットが31歳のときに程度で先立たれ、それでも画家で生きることにし、細腕で3人の子供を育てたのだという。 ずいぶんと頑張ったものである。 彼女の展覧会には、 「お金を稼ぐだけなら、野菜を売ったり、働きにでたりすればよい。それをしないで、絵を売って生きることに決めたのだ、絵を描くということに意味があるのである」 みたいな言葉が貼ってあった。 それは理解できる。 アタシだって、金を稼ぐだけであれば、他にもいくらでも仕事が出来るはずなのに、この道で生きようと決意した日があったのである。 アタシごときにも、そういう決心があるのだから、彼女程の画家であれば、当然に、もっと強い決意があったはずなのだ。 |
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佐野さんの絵は、力強く、動きもあって、なんだか解らないんだけど、どんどんと作品の中に引き込まれてゆく。 まあ、好みの絵だったんだろうと思う。 三岸さんの絵は、花とか風景で、もともと、全く動かないものなのだから、絵がつまらないのである。 どーせ作るのであれば、そういう、静止した世界の中にも、動きが感じられる作品でなければならないのよ。 瞬間表現というのは、そういうことなの。 そうして、絵の中に、どんどんと引き込まれてゆく。そういう力のある絵が描けるようになって、はじめて画家と呼ばれるのである。 三岸さんの初期の作品には、力強いモノが感じられた。中には、マティスのパクリですかという絵もあり、美しい色彩が画布からキラキラとこぼれてくる。 |
今日展示したアタシの作品は、もう2年も前に描いた作品で、売れる予定もないのだが、(オレンジの猫は売れました)悪くも無いので、まだ、バラにならずに生き残っている。 ウチのオットは、フェルメールとかレンブラントの絵しか認めない、アタマがコチコチの男なので、佐野さんも、三岸さんも、どちらの展覧会もブチ切れて、「こんなの絵とは認めない。」 とキッパリ言い放つに違いない。 オジャラには、才能がないから、油絵はあきらめてくれなどと、日常的に言われてしまう。 そして、イラストなら、なんとか見れるので、その筋で金をもっと稼げないのか?などと、ガタガタと言い出すことが多い。 作品がどうかという話は別にしても、絵を沢山描く力はあるよなあ。爆。数で勝負? |
三岸さんの絵は、晩年に行くにつれ、色がにごって来る感じ。 額縁屋のオヤジが教えてくれた、「扱い筋に好まれる絵」に変わっていったということなのだと思う。 別に悪いことでもないのだが、そういう目で見てしまうのよね。 若い頃の絵の方が、よっぽど素晴らしいけどね。絵に力があったとしても、買う方は、そういうのを見抜けないし、家に飾れないという理由で、力のありすぎる絵は、結局買ってはもらえないから、無難な作品ばかり描くようになってしまうのだ。 額縁屋のオヤジは、ウチにきては、しつこく、色のトーンをもっと汚すように言っては帰ってゆく。 アンタが買うわけじゃないんだから、別に構わないだろう。みたいな気になるよなあ。 どんな絵にだって、存在する意義がなければならない。違う人が描いているのに、どの絵も同じ絵に見えるというのは、どの花を活けても、同じように見える活花と同じである。 その道を生き続けられるのかというのとは違う話で、売れる絵のツボみたいなのが解ってきて、実際に売れたりすると、そっちに流れてしまい、みんな、同じような絵になってしまうのか?というキモチになってくる。 日本だけだろうぜ。 子供を三人も育てなければならないのだから、売れる絵を沢山描かなければならなかったというのは理解できる。 それにしたってなあ。 ミツコシの三岸さんのは、タダで何枚ものチケットを頂いたのだが、みんなあげてしまう。 またタダ券が手に入ったら、もう一回行くぜ。 |
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