◆◆◆ 345 ★ 奈良の番組を見る ◆◆◆

2005.4.9

シェリーレビーンの

泉(ブッダ)デュシャンによるのお友達のケムンパス

橘寺とかいうお寺の、庭にある小さい水溜りの文様。五重塔の心礎とかいう品らしい。

今日は、これをモチーフに、てぬぐいのサイズに展開する。

今日も、カメラを忘れてしまう。ごめんね。

薬師寺の台座は、余りの大作のため、乗り気にならない。

どう見ても、アタシには、デュシャンのお友達のシェリーレビーンが、便器を金箔で覆い、「デュシャンによる泉(仏陀)」と名づけた作品を思い出してしまうのだ。

正三角形の角が球形のその文様は、大小5サイズで展開。

ああ、ブッダが舞っているぜ。

しかし、そんなことを書くと、きっと、売れないだろうから、とりあえず由緒あるお寺の名物的なタイトルにしておこうみたいな。

コンパスも、三角定規も見つからない状態で、アタシは、真剣に、アトリエの掃除をしようと思い立つのであった。

フリーハンドで正三角形。 オジャラ句

どちらにしても、便器の花模様は、商品化に遠い上に、著作権の侵害なので、まあ、「五重塔の心礎による」みたいなタイトルであればヨイだろう。

たはは。

アタシのデザインが商品化される日は遠い。

ドライポイントで菜の花を描く。

この日は新作二枚を作る。

オジャラよ。早ければ良いということじゃないだろう?

桜の季節ということもあり、奈良関連の番組目白押し。

奈良というのは、京都と比較すると、露出度が少ないように思えてくる。

京都より小さいというのはあっても、物凄い歴史があって、「日本は奈良から始まった」という気持ちでイッパイになる。

そうして、長谷寺、室生寺、興福寺、吉野の里などを訪ねて回る。

テレビというのは、素晴らしい。

お茶の間旅行という感じである。

吉野の里も、無事に奈良県ということが判明。

桜の薄いピンクに、薄緑、濃い緑、紫色の山並みのコントラストが美しい。

その、色の面と面とが並んで広がってゆく風景は、アタシには、抽象画に見える。

道に、菜の花と一緒に咲いていた、栄養の足りないポピー。花びらの枚数も、よく咲けたのよりも少なくて、劣悪な環境で、必死に子孫を増やそうとしているけなげさがある。

薄いオレンジが可憐で、一本失敬して描く。

お教室が終わるころには、花びらは全部落ちてしまっていて、カワイそうなことをした。

版画は500年くらいは残るらしい。ヨカッタのか、悪かったのかはまだ解らない。

銅版画のお教室での新作。

ネットサーフィン中に見かけた、90万円の油彩(アクリル?)画を見て、今日の作品はこれ風にしようと決める。(その絵を見ながら描いたというのではありません。念のため。カンバスの中心に線で花が一本描画してあっただけなので、残像がアタマに残っているだけです。)

お教室に行く道で、小さい野花をムシり取って、それをモチーフにして一枚。

大差ナイよーな気がするんだけど。

これが90万円とは驚くねぇ。

現代アートなのかもなあ。

展覧会を開きます、時間がなかったから、短時間で作れる絵を、とりあえず同じ絵ですけど、大量に作って並べてみました。みたいなムード。

こんな値段がついているのだから、きっと、賞を取ったり、何かで話題になったり、優れた作品がいくつもあるに違いないのだが、その後、忙しくなりすぎて、作品のレベルが急激に落ちてしまいましたといわんばかりのその作品は、写真で見てもついていなかった。

力が中途半端なウチに、有名になってしまうと、その後、期待に答えられなくて自滅してしまうという典型なのだろうか?

イイ絵も沢山あるんだけどなあ。

小さい作品は12万円程度とリーズナブルなのもあるので、90万円は、よっぽどサイズが大きいのかもしれない。

「号イクラ」とかいう、単純なアート界の価格構造にも問題がある。

同じ90万円なら、石踊さん圧勝。

嫌まあ、実物を見に行く予定ですけどね。作品に力があるのか、力が落ちているのかは、一度実物を見れば解ってしまうのだ。

ミニシルクスクリーン用の小さな枠。

これに、切り絵を貼り付けて、プリントゴッコのようなインクで転写する。

切り絵のステンシルでは、どうしても表現できない版は、こちらを使う予定。

どんな作品を、いくらで売ろうが、それは、画家や画廊の勝手であるからして、アタシは、そのことをとやかく言ったりはしない。

画廊が9割ということもあるらしいからね。

90万円で売れても、作家に入ってくるのは9万円ということである。

そんなところで、展覧会開かなきゃならない現実も辛いし、作品を作ろうという士気が著しく下がってしまうという原因の一つなのかもしれない。

石踊さんの作品(金箔花鳥の中にも独自の世界)が90万なら仕方がないと思うが、花一本が90万というのは、買う方に鑑識眼が無いからに他ならない。

中古価格になると、大きい絵(100号でも10万円程度からスタート)程安いのだそうだ。なるほど。実態に合っている。日本の家屋には巨大絵画は飾れないから、引き取って大切にしてくれるだけでもありがたいということのようである。

作品の価値というのは、少なくとも作品に比例しているべきであり、作品の価値よりも安いと思えれば、お買い得だし、どうにも納得が行かない品であれば、買わないだけである。

値段が高いから、価値があると考えるのは、全く素人考えだということだ。

鑑識眼がないのであれば、勧められた100万円をポンと買うべきではない。

お金持ちで、金が余って仕方がないから、投機目的でという方は、不動産にでもまわす方が良い。

その収入が余って、仕方がないという人は、若い貧乏アーティストの作品を買ってやって欲しい。ああ、若いアーティストだから、お金持ちが出資してくれているのか。なるほど。

それでも、お金持ちでも損したくない人は、買取もしてくれる、筋の良い画廊で、ゼッタイに安全というのを買うべきなのだ。

まあいいか。誰が何を買っても構わない。アタシは、価値がある品しか買わない。それだけのことだ。お友達になったら、交換してくれるかもしれないし。爆。

知名度が上がると、作品のレベルとは関係なく、作品が売れてゆくということなのだろう。

有名になると、作品の力が以前よりも落ちてしまう作家さんというのがほとんどであり、ピカソやミロの作品でさえも、版画(リト)を作るようになってから、絵が荒れてくるのが解る。

芸術活動というのは一筋縄ではないものなのだと考えさせられた。

そういう中で、自分の作品とどう向き合うのか。

作家としての岐路は、そこにあるのである。

アタシ的には、花一本が90万円で売れるようになるとボロイので、それはそれで、アリかなとは思う。

否定しているということではない。

抽象画だって、苦もなく、いくらでも描けるのだ。

それでも、抽象画にはアタシの作品という個性がまだ出てきていないので、売れたりもしていないだけである。

余った絵の具で、失敗したカンバスに描く程度なら、いくらでも作れてしまう。

そのうちに、何かがでてくるかもしれない。

キモチとしては、その程度である。

アタシとしては、やっぱり、人物に戻ると思う。人物画は肖像画以外は売るのは難しいので、結局、他の絵を描いて、生活費を稼ぐということになってしまうのだ。

やりたいことばかりをして生きられるはずがない。

この前、ヨコハマ美術館で、奈良ヨシトモのフィギアを買いそうになった話を、銅版画のお友達Wさんにすると、彼女は、「型師がヨカッタんじゃないんっすかね?」と、バッサリ。

確かに、平面の作品は要りませんからぁぁぁ。残念っ。

コロニ会のルーシーにも、その話をすると、「やめてくださいよ」と、キッパリ止められてしまう。

というように、アーティストのお友達の皆さんはクールでお厳しい。

良いものはヨイ。

欲しいものは欲しい。

買えないものは買えない、

ダメなモノはダメなのである。

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