◆◆◆ 340 ★ 鑑真を描く ◆◆◆

2005.4.9

てぬぐいの習作を進めているときに、仏像の模写をしている。

仏像の模写をしながら、ときどき、キュビズムに展開したりもしている。

そうして、そのフォルムは、頭の中に固まっていて、もう何も見なくても、その映像を引き出して、カンバスに描くことができるようになっている。

パレットに残った絵の具で描いたので、絵は汚くなる。

しかも、筆を洗うのも面倒だったので、一本の筆で、そのままズルズルと描いたため、こんな絵になってしまう。

このカンバスも、もともと、アタシ以外の人が何度も塗りなおしたカンバスで、下には失敗した絵が描いてあって、それも、この絵が汚い原因の一つである。

あれだよなあ。絵の修復のときなんかに、「絵の下から別な絵が出てきた。しかも、全く別人が描いたような絵だ」

などと、後世の人が混乱するかもしれないよなあ。たははは。

まあいいか。

鑑真の顔というのは、どうしても眼の周りが黄色という気がしてしまう。

なかなか、安らかさとか、仏業に打ち込むお姿というのは表現できないものだということは解った。

これは、海を渡る鑑真。

おおらかな波模様は、バティック布を思い出す。

カワイイぜ。

オジャラよ。この絵をこれで終わりにするんじゃないだろうな。

ま、こんなもんでイイと思う。

加筆したからといって、もっとありがたく描けるというものでもない。

だいいち、F3に全身を入れるには、これが限界なのよ。

後ろの波模様や、赤い部分は、ひび割れる可能性があるので、そうしたら加筆すると思う。

この絵の良さがわかる人は、ここにはいない。

ピカソなら、この絵は、秘蔵していたに違いないぜ。金に困っていないときには、絵がない、絵がないといって、隠していたらしい。

まあいいか。

隠していたら、値段が上がるほどの絵でもない。

この絵も、使い古しのカンバスに描いた作品。

サラサラと、力強く描く。

そうなのだ。これでよいのだ。

鑑真の絵と比較すると、圧倒的に安定している。

描きなれているからということだと思う。

安定していて、見た目はよいのだけれど、近くで見るとあまり良いと思わない。

まあいいか。

絵は遠目で見るものだしなあ。

招き猫の絵をもっと描こう。

少しは売るための絵も描いておかないと、来た人がガッカリするからである。

みんな、なんか買いたいと思いながら、和室などに合う絵というのは、アタシにはまだ描けないでいる。

色が強すぎるんだよねえ。

かといって、汚い絵は、出来上がると全部やり直してしまうのである。

というか、最近は、絵が汚くなることもなくなった。

今日の一番上の鑑真は、ちと失敗したけど、もともと、カンバスが黒かったのよ。

絵の強さという意味では、猫よりも縞模様の鑑真の方が上である。一番上のはイマイチだった。

ボロックという人のテレビ番組を見る。

ハゲ頭にチン餅のセンセイみたいだと思った。

チン餅のセンセイは、ボロックの影響を強く受けているのだということが理解できた。

あるセンセイは筆を使って描くなと話されていた。

筆から開放された、絵画作成。

絵画作成から開放された便器。

世の中には、イロイロな価値観があり、その価値観に金を払う人がいるというのが、また奥深い。

ボロック風の垂らし系のアートは、個展に来た人に体験してもらうというのも楽しいかもねえ。

現代アートを全く受け入れず、激しく否定する人というのも依然と多く、その平凡な価値観は日本を支えているという事実も見逃せない。

それでも、オカモトタロウ位に知名度が上がれば、芸術家ということになるらしい。

確かに彼の作品はスゴイ。

よく解らない中にも、物凄いエネルギーが潜んでいて、作品に触れると、何か不思議な気持ちになるのである。

芸術家が作り上げた作品の持つ力というのは、隠すことができないということのようだ。

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