◆◆◆ 228 ★ 美の値段を読む ◆◆◆

2004.11.15

古本屋で、『美の値段』という、イケダマスオの本を買う。300円。

1990年に出版された本で、バブルの絶頂期とか、崩壊の最初の年といえなくもない。

インターネットもまだ無い時代の、絵画市場の実態をよく表現した本だと思う。

10ねんかけてバブルは完全に崩壊し、そのあと5年かけてネット時代に入った。

満寿夫が生きていたら、一体どういう本を書いたのだろうか?

この本のスゴイところは、普通の人が書いたらマズイこともキッパリと書いてあるところだと思う。

『画家が死んだら絵の値段が下がる。』という話の、理由なども明記されている。

この本で一番笑ったのは、

『日本人がもっとも好む風景画』という章で、

『日本では、これは日本画、洋画を問わずにいえることだが、一番売れるのは風景画で、静物画、人物画と続く。風景画で特に売れるのは富士山で・・・・中略・・・静物画の中ではなんといってもバラである。バラさえ描ければなんとかなる。』

という部分である。

アタシもバラばかり描いているよなあ。画家としての本能なのか?

バラは静物の中では売れ筋ということらしい。

さらに続けると

『人物画は美人画のようなものから売れてゆき・・・・日本で売れないのが裸体画だ。』でしめくくられる。

ヌードは、売れないのかぁ。納得。みたいな。

オジャラよ。方向修正をしろよ。みたいな感じ。

最近は、『過激系ヌード』は、裏ではブームっぽいけどなぁ。

次に笑ったのが、

日本人は質感(マチエール=絵肌の感じ)が好きなのだそうだ。

『絵の質感が好きで、絵の具をこねまぜたり、ひっかいたり、分厚く塗り重ねたり、微妙に色彩を混ぜ合わせたりした絵肌に芸術性をかんずるのである』

というくだり。解り易いからねぇ。

確かに、額縁屋のオヤジも、そういっていた。

額縁屋の女将は、『アタシの絵は、ボテボテしていて、絵の具をケチっていないのがいい』という評価である。

『だから古びた壁を厚塗りで表現してあると心を惹かれるわけで、佐伯裕三の人気もここにある。・・・・・中略・・・・だからゴッホ、ルオー、梅原龍三郎など絵の具をふんだんに使った画家は人気が高い。その逆に、マチスなどは、簡単に罹れているように見えるからだろうか、意外と人気が少ない。』

などと続いてくる。

確かに厚塗りの方が絵が高そうという心理には同意。アタシも、無意識に、自分の作品がうす塗りだと耐えられなくなり、いつの間にか加筆してしまう。

アタシは、作品をどう販売するのかについていつも考えている。

であるからして、この本との出会いは、一生に一度の出会いと言っても過言ではないという内容であった。

チャンスがあったら、アート市場に興味のある方は、『美値段』を読み是非参考にされるといいと思う。

アート会のモヤモヤが全て吹っ飛ぶと思う。

『その上で、どう駒を進めてゆくのか?』

ここが一番肝心なのである。

この本には、『全ての画家は、自分の作品の価値は、取引されている価格以上に価値がある』と考えていると書いてある。

日本画壇の価格構造の複雑さからくる、市場の不信感というのは、多くの一般大衆が絵を拒絶して生活せざるを得ないという結果を招いていると思わされた。

この時と、現在の一番の違いは、バブルが崩壊し、絵の値段が急落したということ。

しかし、アート市場が、バブル期のままのキモチでいることだと思う。

もう一つは、インターネットというツールが出てきて、オークションやら、画家が収集家や一般大衆に直接作品を販売するチャンスが増加しているというコトだと思う。

この本に書かれている時代よりも、貸し画廊の数ももっと増えているように思う。

画廊間の競争は激化するし、アートの値段は下がるし、ゲーサイなどの、新しいスタイルの販売形態も生まれつつある。

アタシもボチボチと気づき始めていた話も多く、読むことによって、ゴチャっとしていた情報が整理できたように思う。

満寿夫が自分の銅板画を100円で売っていた売れない時代の話もあった。

100円というのは、当時2万円で生活できた時代であるので、今、一ヶ月20万円で生活できるとすれば、大体、1000円程度ということになる。ま、そんなもんだろう。アタシも、その値段で出している小さい作品もいくつもある。

満寿夫は、『その100円の作品は、今は天井知らずで値段をあげているが、利益を搾取しているのは、転売した当事者同士で、自分には何の見返りもない』と本の中で愚痴っている。

そうなのだ。自分が手放した後、他の人に、いくら高値で売れようと、自分の懐に、金が入ってくるという構造ではないのである。

自分で売ろうとすれば、芸術品ではないし、画商が入れば、売値は上がるのだが、身入りは自力で売ったのとあまり変わらない。

身入りが変わらないのに、絵の価格だけが上がってゆくという構造だということだ。

だから普通の人は、芸術がキライになる。

『画廊経由となり、絵の売価が上ったとしても、作品代を払ってくれないことも多かった。』などという話を読むと、全く信じられない気持ちになる。

そんなことだから、才能がありながらアートを諦めてしまう人が後を絶たないのである。

アメリカのアートを保護する法律については知らなかったので関心した。

公共機関の建設費の1%は、アートを買う事に当てなければならないという法律があるのだそうだ。

その予算で、若い前衛的なアーティストの作品買い上げられ、どんどんと名を上げられるのである。

マスオ曰く、現代アート部門は、アメリカの一人勝ちなのだそうだ。

買ってくれる人があってこその画家である。

お役所が税金で買ってくれるとなれば、こちらも頑張り甲斐があるというものだ。

お役所といえば、ホントに頭に来たよなあ。アタシごときの、場末の展覧会のポスターも、『営利目的なので、貼れません』広報紙にも、『営利目的なので、有料広告も掲載できません』では知名度は全く上げられない。

『あのねー、画家なんだから、絵の販売するのは当たりまえでしょう。絵を売ったからっていって、儲かってそれで生活できているというコトではないんですよ。アタシの場合、全てが画材を買っていて、生活は全部自分の持ち出しなんです。営利とは違うんです。そういう芸術家のタマゴを応援しようとしてくれる人に、個展の情報が行き届かなければ、ゼッタイに、この先ここでは画業を継続できないんです。』と粘ったがダメだった。

挙句の果てに、営利広告ばかり掲載の公社系の広報紙の連絡先をタライ回しにされ、何度も何度も電話をし続けて、最後に『広告費は12万円です。でも、もうイッパイで掲載できません』

などという応対では、この先、この地で芸術活動など継続できないと思わざるを得ない。

『千住おもしろ館』などという、地域活性化のための施設でさえ、ポスターも貼らせてもらえない町なのである。何を活性化させているのか、全く解らないぜ。

最低でも、長年活動を続けて、功績を残した人の美術館の一つでもある地に移転しようと思うのが人情というものである。

個展のポスターを貼る・一行、個展の情報を広報紙にのせてもらうという話を進めるだけの話も、夏から取り組んでいて、何一つまとまらなかった。アタシは、10年サラリーマンで仕事をしてきたキャリアがあるので、自分の努力不足だったとは思わない。

この地に、創作活動をしている無名の人を受け入れる土壌がないというだけなのである。

一旗あげて、千住を出るというのが目標になる位の不快感で、全く頭に来る。

そんな応対しかできない場所だから、足立区は、美術館の一つも持てないのだとアタシは納得した。画廊も、マルイに、第三セクターのお高いギャラリーができただけで、ボッタクリ画廊と、一枚150万円の画廊がやっと一回、1週間、展覧会を開いただけである。小さい画廊の一個も無い町だ。

アーティストは、怒りながら、何も言わずにこの地を後にして、自分を大切にしてくれる地で、もっと大きく成長したに違いない。アタシも、頑張って、ゼッタイにここを出てやるぜ。キッパリ。

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