◆◆◆ 2385 ★ 国吉康夫  ◆◆◆

個人的な感想にはコメントの前に*印

2015.12.24.

国吉康夫

波乱の人生から生まれた哀しみと希望の絵。

明日の自分がどうなるだろうという不安。

都会の闇を世に知らしめた作品。

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美術史家

トム・ウルフさん

繊細な感性の持ち主で、喜びも悲しみも独自の視点で描き続けた稀有な画家。

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アメリカの画家のトップスリー。

新聞や雑誌の受賞記事をスクラップしていた。

移民の人生の苦労がにじみ出ていた。

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明治二十二年 岡山市に生まれる。

一攫千金の夢を叶えたい。17歳で渡米。

待ちうけていたのは厳しい現実。肉体労働を転々とする。

英語が話せない国吉は、絵を描くようになり、それが褒められて

画家を目指すようになる。

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二人の裸婦

愛らしさと哀しみを兼ね備えた絵。

当時低賃金(果物の収穫やホテルの掃除)で辛い仕事をしていた。

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果物を盗む少年

アートスチュウデント レージ アートの学校。

人種身分に関係なく絵を学べる場所。奨学金をもらい、ここで学ぶ。

差別の無い自由な校風は、彼の才能を一気に開かせた。

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傑作「もの思う女」

情事のあとのけだるい空気が漂う。

人種はあえて曖昧に見えるように表現されている。 

気だるい表情の奥には強い意志を感じる。

国吉は、デッサンをしたあと、半年ほど絵を寝かせて、

その後絵を描いてゆく。

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世界恐慌の後、失業者が溢れていた。人々の不安を現すことを忘れなかった。

*モチーフが女というところが素晴らしい。男の絵は売れないからね。

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説明 日本画家 千住博さん

人間のメランコリックな内面表現。葛藤。しかし、生きてゆくんだという迫力を感じる。

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インタビュアー 人種差別がまだ残っているのか?

千住 私は、幸いにも、そういう目に会ったこと無いけど、人種差別というのは世界中にある。

当時は、嫌な目にあっている人も多くいただろうと思う。

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国吉の言葉

自由で民主的な生活とは人生にとって欠かせない根本的な要素だと痛感した。

国吉は二度結婚。どちらも美しいアメリカ女性。

国吉は、明るくてユーモアがあったので、皆に人気があった。

1931年、父親が病気になり、帰国。このときに、日本で初めての個展を開く。

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「アメリカの絵が日本で知られていないという話

当時満州事変、戦争熱にうかされているような気運。

「私は日本に帰ることを喜んだが、あまりにも長く離れていたために

適合するのが難しいのを感じた。私はもはや、日本には所属していなかった。」

国吉にはアメリカしかなかった。

1941年、真珠湾攻撃があり、アメリカから敵国民とされた。この国に対する日本の攻撃は、

まるで私が手を伸ばしてやったかのように個人的なものへと形を変えていった。

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彼は、アメリカへの忠誠を示すために、日本を悪く描く絵を描かなければならなかった。

国吉は、軍部から、残酷な絵を描くように指示された。

最も、辛い時代だった。

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自分自身を見失いかけていた。

あとりえに籠り、自分の信じる絵を密かに描き続けていた。

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千住さん

故郷に錦を飾るために帰ってきたのに、

奇妙な感じというのか、(作品を)理解してもらえなかった。

すごく分かる気がする。

ブドウの水墨画。日本人であることを思い出した。なかなか、このようには描けない。

力のある水墨画で、日本人であることを再確認せざるを得なかった。

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戦後、再び脚光を浴びる。アートスチューデントスクールで、絵を教え始める。

教室は、いつも生徒たちで一杯であった。

画家

ぶるーすさん。国吉の教えに感謝している。私の絵を見て先生は言ったんです

「そのように描き続けると、君は三十歳で死んでしまう。」

完璧ばかり追い求めても果てがない。

何事も挑戦することが大事なんだと言いたかったんでしょう。

おかげで、三十歳になったとき、まだ生きてるって喜んだものでしたよ。

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ホイットニー美術館

1948年 日本人としてはじめて回顧展を開くという名誉な展覧会が開かれた。

赤狩り。

国吉は、千八百人も率いる絵の組合を組織していた。それが、冷戦時代のアメリカでは、共産主義者とみなされた。

ぶるーすさん。

「僕は、ベルギーに留学することになっていた。突然中止になる。推薦者の国吉先生が、

共産主義者とみなされ、ブラックリストにのっていたからです。」

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絵の修復。

巨大な水彩画。包装紙に、一気に描かれた。

ピエロの顔の中に憂いがある。修復している方も、複雑な気持ちになる。

紙には無数の亀裂や皺が刻まれている。

細かく削った消しゴムの粉を絵の上に撒き、大きい刷毛で、消しゴムを画面の上に

軽くこすりながら、絵の汚れを取ってゆく。

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国吉の晩年、アメリカは、ボロックのような抽象絵画が全盛となる。

国吉は六十三歳でひっそりと息を引き取る。

今回の展覧会で絶筆が発見される。

「私にとって 絵を描くことと生きることは同じなのです。

創作は自分が自分であること。

そのことに正直であれば、難しいことはないのです。」

that’s why been its self. 

I been to painting to me, is

experience of life,

telling is a happen hard if

you try to honest yor self. 

if you try to do your self. don’t try to be it to somebody else.

(一部聞き取りの正確性に自信のはないが、だいたいこんなスピーチ。アタシの訳だと

「私のために描き続けてきた。ただそれだけが、その理由です。

どんなに辛いことが起こったとしても、自分に正直(な絵を描き)に生きてきた。という経験が、私に教えてくれました。

もし、あなたが何か(創作)をするのであれば、自分のためになさい。

それは、人のためであってはならない。」

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テレビの訳とは大分違うが仕方ない。

まあ、意訳すれば

人のための絵を描くのでなく、自分の気持ちに正直に、自分の絵を描きなさい。

というように聞こえますね。

私にはね。

意訳しすぎですかね。まあいいですよね。アタシの創作のためのメモですからね。

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どんな有名画家にも苦難はある。

アタシの苦労など、顔に蠅が止まった程度の痒さ。(*°▽^*)

国吉先生、自分の絵に正直に、突き進みますよ。

ありがとうございました。(*°▽^*)

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