◆◆◆ 2381 ★ 陶芸家 八木一夫 ◆◆◆
個人的な感想にはコメントの前に*印
2016.1.8.
自分の八木一夫 解説 司馬遼太郎(1981年放送) 「素焼パイプ」風位 雲の伝説 オブジェ焼き 焼き物から実用的な機能と形態をすべてはぎ取られ、物としか言いようのない有りようのない焼き物。 創始者が八木一夫 −−−−−−−−−−−−−− 肉声 「焼き物作りの現実からいうと、なんも新しい今日のものを作ろうと言っても、轆轤(ろくろ)で作れば、みんな「まんまるぅ」なりますしね。 左右の形もシンメトリーになる。 丸い形に文様をつける。絵付けをすれば、調和が取れるとか、平行感がでるとか。 そういうものを無理やり変えてしまったことで、ろくろから生じる、シンメトリーな神経からはずれることはできない。 もっと新しいことをしようと思えば、それをブッツブすか、ヒネってゆくことしか知らないし。 しかも、それが、日常の器をテーマにして作れば、器そのものの持って生まれた内容がありますし、自由には成りきれない。 物を入れるとか、刺すとかなんとか、そういう働きからはずれることはできない。 自分の心そのものにだけ忠実なものをこしらえようとすると、器物づくりから離れなきゃあかんのです。 現代人の語彙っていうのは、昔の語彙ではどうしてもだめだと思った。 万葉のままではいけない。 現代人の心の状態の世界をどうしても表現できない。現代人は現代の語彙を使わなければならない。 アルファベット っちゅーもんを、発見してゆこう。 こしらえてゆこうとして「オブジェ」というものは始まった。」 −−−−−−−−−−−−−−− 司馬 「私も八木も、戦争に取られた世代で、青春が遅くやってきた。年齢的(三十前後)には、青春が終わっててもいいのに。ところが、八木さんは、死ぬまで書生そのものだった。 「飯を食う」という大人の部分、姿を見たことがない。考え方も姿勢も。 八木さんの、最も初期のやつ知らないんですよ。 中期以降の作品を知ってるんですけど。 ----------------------- 司馬さん 造形とは何か、造形とはフォルムである。 という考えがあったもので、司馬としては、その考え、気運には抵抗があった。が、八木に は、形態(フォルム)の形態の先行に対する抵抗感はなかった。 司馬「八木毒にそうとう当てられた、最初はその毒に反発していたが、少し免疫がでてきたときに、この作品が出たもんだから、評価が平かになった。」 作品をずっと見ていたら、こういうことで文学的連想というのはいけないのですが、 「サムザ氏の散歩」−−−−−−−−− この作品でショック受けたんですけどね。 前の八木さんに出会って。 一晩飲んでた。 「おまえさんのやってることは、ダメだ」と僕は言ったんです。 「僕の生涯の後悔です。」 「この絵(焼き物)が、裸なんですもん。造形がもう狂っている。それ以外考えてないんですもん。」 八木さ んへのプレッシャーのかかる、父(有名陶芸家)という存在に対してね、それが、毎朝散歩にくるんです。最後には、お互いに芸術的に不愉快だから、 (父親は息子の作品が不愉快で、一夫とは別な窯(嵯峨野)で焼いていた) 「サムザ氏の散歩」
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ナレレーター 「この作品のどこに悪意がこめられているんですかね」 悪意の塊みたいな作品。 透明度の高い精神という。そういう意味ですが。 一見、悪意の塊みたいな作品ばかり。 それも痩せこけたね。 八木さんのオヤジ(八木一草/お互いに敬遠する仲)が散歩しているところを骨にしちゃったなと。(司馬はそう感じた) −−−−−−−−−−−−−−−− 八木さんは、この頃、陶芸で飯が食え る状態じゃな かったですけども。まあ、晩年まで彼はそうでした が、このときは、特にそうでした。 −−−−−−−−−−− 昭和二十三年 走泥社を結成。 自己の内部にあるものをより、純粋に表現しようと いう先鋭的な心情から生まれる やがて、伝統的な陶磁器の持っている実用性を一切否定しオブジェとしての造形の世界に踏み出してゆく。 −−−−−−−−−−−−− 八木が軍隊で中国に行き、アルミの容器で ご飯を食べた経験が、八木に強く、陶芸を意識させた。 |
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日本美術界は、昭和初年にフォービズムが来日したあとは、外から来る大した驚きがなかった。 戦争ばかりしていたし、暫くは、絵どころでは なかった。 死の鎖国でしたから。 戦後、人類は、いろんなことを考え、いろんな事が出来るんだな。 八木一夫のように、傷だらけになっている男が、傷から、痛みが体内に染みるような男が、外国から入ってきた作品に影響を受けないはずがない。 −−−−−−−−−− ナレーター 当時の作風は、外国から入ってきたものの模倣的な作品が主流だったのでは? |
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ナレーター「八木さんは、作品を作って幸せだったんでしょうか」 司馬「人間はね、生きていかなしゃーないしょ。生きて行っただけですよ。子供でも、泥でお団子作るでしょ。雪だるまとか。それをすぐれた感性でやっていただけ 。子供は、母親がご飯くれるでしよ。八木には母がいなかった。そういう子供の感性を持ち続けないと、こういう作品はできないでしょ。これ を作って、国際的な賞を沢山もらってるんですよ。 でも、そんなには嬉しそうな気配を見せないほどややこしいにんげんじゃないんですよ。でも、嬉しくもなさそうだった。生きてる限り、作らなきゃしゃ ーないという気持ちだったんだろうと思う」 −−−−−−−−−−−−−−− 八木は音楽も好きだった。 遊びの精神を、自由に陶芸に反映した。 −−−−−−−−−−−−−− ナレーター「ユーモラスな作品も多いですね。こう いうものも八木毒なんですかね」 司馬 「八木毒。 これを作るの が八木さんなのか、これを作るのを支えるのが八木さんなのか分からないですが。 ネギ坊主みたいな話になりますけど、ぼく、禅宗とかね、大キライなんですよ。 うどん屋のオヤジの方がよっぽど出来上がっているというイメージですから。 この人は優れた禅坊主だという人は、うどん屋のオヤジにやや近いとかね、そういう評価ですよ。 百万人に一人の天才が飲めばいいですが。 その他の凡人が飲めば、・・・・ならなくなる。 いまでもありますが、あのときポント町の屋台でお酒飲んでまして、 「八木さん、禅の悟りとかいうのは、夢の禅の世界ですな」 とアタシが言うと、 八木さんは、うんと言ったことはあまりない人ですが。 「違う。」というんです。 八木一夫が言うならそうだ。 というのはね、八木一夫は、裸になって、(否定して否定してですね、) 茶道のテイストも、伝統も否定する。何かにもたれかかる造形も否定する、何かの奴隷になっている造形も否定する。全てを否定する。 最後には自分も否定しましたね。 そこで、ドサンと尻もちついたのは、それがホントのユメの禅の世界ですね。 これをつくるためじゃなくて、そういう自分を作るために、一生生きたみたいな感じがありますね。 それが、生きてる限りは、朝起きて、土こねなきゃしょうがないですから。 と思っていた時期があって、今でもそう思っています。 |
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