◆◆◆ 2337 ★ ゴーギャン展  ◆◆◆

個人的な感想にはコメントの前に*印

2015.10.30. 

この日は、実は、ニキド・サンファール、ゴーギャンとそのお友達、フジタ全収蔵作品展

という三つの展示を襲撃。

ゴーギャン展は、汐留のパナソニックミュージアム。

私設の美術館ながら、頑張っていると思う。特に照明設備とトイレは最新式が試せるという特典付き。

美術館の外で、解説ムービーの上映があるんだけど、あれはシビれたな。

「精神的なものを完全に排除した印象派に対して、ゴーギャンたちは、総合主義を作り出した。」

などという説明。

印象派の絵には、精神的なものが無いということになる。

ま、確かにそう。

wikiによれば

綜合主義

ゴーギャンとベルナールによってポン=タヴァンで生み出されたスタイルは、綜合主義と呼ばれる。これは、複数のイメージを結び合わせて総合することによって、印象派とは全く異なる表現を創りだそうとしたものである。対象の忠実な写実を捨て去ること、画家の記憶に基づきながら、画家自身の感情を反映させて制作を行うこと、純色を大胆に用いること、遠近法や陰影を使わないこと、明確な輪郭線で区切られた平坦な色面で描くというクロワゾニスムの技法を用いること、不要なディテールを捨象した幾何学的構図によること、といった原則を打ち立てた。

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引用ここまで。

原則まで決められていたんだ。

印象派の絵というのは、見れば見るほど飽きてくる。

最近はあくび大量の自分に呆れ返ってしまう。

まあ、その理由が、精神性の欠如という理由におおいに頷いた。

絵画というのには、それぞれの作家の骨子となる、哲学があって然るべきである。

まあ、(哲学が全くない人もいる。て言ない人もいる。

その人たちの話は、今回は、除外。話しても仕方がない。

絵というのは、見て歩けば、イロイロな表現があるわけで、それは、自分の創造の範囲を大きく超えてくる。

現代芸術は、特に、自分の「作品」というものから、大きく離れたものを目指しているわけで、驚くのも、まあ、普通のことなのだ。

絵画の話になれば、

「神話」

「風俗画」

「寓話」

「風景」

「王家の肖像」

「事件の記録」

など、多様である。

絵というのは、いくらでも作れるものである。

例えば、人物や、風景というのには、理由は要らない。

私が、裸婦のクロッキーを繰り返すのは、人間が座っててくれると、申し訳ない気持ちでイッパイになり、急いで描こうという気合で満たされるからである。

そういう、静物や、風景にはない緊張感の中で絵を作るという訓練は、重要である。

人間(モデルさんが座っている時間な内物凄い集中するし、も二度と描けないわけだから、今良い絵にしようという気持ちも湧いてくる。

これが猫などだと、そこまでの緊張感には包まれないのである。

印象派に哲学がなかったかといえば、そうではない。

「作品に意味を持たせない、光を捉える」

という二点に終始したという哲学がある。

見ててどうかといえば、精神的なものが入り込んでいないと、絵が弱いよね。

嫌まあ、精神性に欠けているといっているわけではない。

印象派は、結局は分裂して、セザンヌは、誰とも関わらなかったし、ルノアールは、独自の道を行った。

マネは、サロンに固執して、結局は画題を重視したし、マネは田舎に引っ込んだ。

まあ、そういう話になる。

印象派の絵がなければ、ゴーギャンも、ゴッホも存在しなかったということを考えれば、歴史的には価値ある活動だったと思う。

キュビズムや、絵の破壊に走ったピカソの絵に、精神性があったかといえば、どうなのか。

今回のゴーギャン展を拝見したことで、考えることが沢山できたということは喜ばしい。

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