◆◆◆ 2129 ★ 難波田史男展@世田谷美術館 ◆◆◆
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(あとはいつでも見れますよん)
2015.1.28.記 2015年1月10日 メモ 難波田史男(1941-1974)は名も無き青年画家として、ひとり独自の世界を逍遥していました。不慮の事故により32歳の若さで夭逝してしまいましたが、15年足らずの短い活動期間に、2,000点を超える作品を描き残していたのです。 世田谷美術館 2/8まで 2015.1.23.というテレビ番組を見て、いってまいりました世田谷美術館。 遠いぜ。 有名画家の、難波田パパの息子さん。 絵は、ほとんどが、インク、水彩という品で、大きい作品をつなぎ合わせて作る、絵巻物のようなスケールは壮大だった。 わたしは、インクや水彩で描いた絵というのは、常々評価が低いなと感じてきた。 ターナーの絵ですらそうである。 まあ、途中から前衛傾向に走ったということもあるのか、もしくは、売れ始め、作品の手を抜いても売れ続けたのか、そういう、何らかの事情により、作風が変化していたということではあると思う。 それでも、ミロとか、ダリの絵なんかよりは落ちる。 そういう意味では、難波田史男さんの作品は、ついていなかったと思う。 後半、油彩の本画や銅版画があり、あれはヨカッタなと思う。 銅版画は、売れても安いからね。そこは、それでついていない。 |
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生涯で2000点もの作品を描き、32歳で事故死。 学生時代は、学生紛争の時代で、ガッコウにゆけず、精神を病んでいたとも書かれていた。 精神を病む。 急逝。 まあ、有名画家の特徴的なキーワードではある。 作品はどうかなー。 個人的には、オーラ感じなかったけどな。 クレーやセザンヌからは飛び出てくるものを感じるからね、やっぱ、そういうのと並ぶと、絵が落ちるんだろうというのが感想。 知人のJUNさんが、一枚素描を持っていると話していたので、700枚は世田谷美術館が収蔵し、残りはマーケットに流れたんだろうと思う。 他にも、美術館が収蔵しているかもしれないけど。 そうしないと、作品というのは、バラバラになり、まとまった展示などができなくなるからである。 個人の愛好家収蔵の方が、作品が良いことも普通だからね、もう少し見たいところ。 今回の展示は全てが、世田谷美術館の収蔵品ということだからね。アタシもはやく世田谷区に引っ越さなくちゃ。 |
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出口付近で、難波田パパの作品が三枚展示されていた。さすがのオーラに、あとずさり。 「うわっ。パパのに似てる」と思ったら、パパのだった。 史男さんの死後、遺族により、世田谷美術館に作品が収蔵されたという話。 そうだよなー。生きてる時に売れていたのであれば、全部売っちゃうし、早死もしなかったんだよねー。きっと。 絵が売れれば、精神のバランスは崩さない。 |
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板橋区立美術館に行ったときもね、武蔵野の画家たち。とかいって、学芸の人が、収蔵品の付加価値を上げる活動を続けていて、素晴らしいなと思った。 美術館収蔵にならなければ、これほどの知名度は上がらなかったというのが、私の本音のところである。。 足立区には、郷土博物館しかないからね。 今までは有名絵画の寄贈も全て断っていたと聞く。 アタシは、パブリックコメントに参加したときに、「収蔵品を受け入れろ」と提案した。 その他に、美術館の設立、地元の画家に対する支援を厚くするなど、力を注ぐように提案した。 そのコメントに対する課長の答え 「足立区に芸術家なんているんですか?」 だからね。ぶち切れたよ。 内心思っても、パブリックコメントで、発言しにきた熱意のある人に吐く言葉ではない。 もう少し配慮がなければ、才能ある芸術家ほど、他区に流れてしまう。 世田谷にするか、横浜にするか、それとも千葉にするか。アタシだって、どこにするのか、考えていないわけではない。 それぐらい、絶望的な環境なのである。 |
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