◆◆◆ 2037 ★ 故宮博物館展 ◆◆◆

インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送

(あとはいつでも見れますよん)

2014.7.6.

テレビ番組の消化中。

故宮(台湾)の宝物が来てるんだよね。

上野だし、もう一度行くか。

S嬢を誘おう。

故宮博物館の宝物は、中国でも台湾でも見ている。

まあ、見て歩いたときは物凄く若かったからね、今ほど目が肥えてなかった。

『へぇこれが。』連発で、ダイエー博物館収蔵の方がスゴイと思ったり、イロイロな感想があったけどね。

テレビで歴史を知れば、なるほどーと思う。

例えば、ナントカいう人の墨絵。

歴代皇帝が引き継いできて、所有の印を押すのがトレンド。

信長の持っていた、茶道具で秀吉、家康が持ったというナス形の茶いれの事を思い出した。

その墨絵を持つものが、真の皇帝であるというような評価だったよう。

テレビ番組では、王義之の書は、北宋朝(960〜1126)の最期の皇帝・徽宗(きそう)(1082〜1135没)が集めたという話。

皇帝は、国内から、特産品、特に工芸品を献上させ、7000点ものコレクションを集めたのだという。

献上という響きはいいわね。タダで上納させて、良ければ褒美を取らすという流れらしい。

くーっ。

彼は、あっけなく、攻められて、北宋朝は消滅。しかし、次の皇帝は、その宝物を引き継いだ。

その後、歴代皇帝は、コレクションの数を増やしながら、全てを引き継いできた。

という歴史。

なるほどー。中国の物欲恐るべし。

それだけの美術品を引き継げるだけの力を持って、現王朝を乗っ取るワケだからね。

どんだけのスケールなんだか。

徽宗(きそう)皇帝は、中国で最初のコレクターということになり、コレクションを集め、付加価値を上げ、献上品そのものも、褒美などにも使ったのだと思う。

彼が褒めれば、値段がつく。という構図。

どうして皇帝に産まれなかったのかしらね。

まあ、そのコレクションが素晴らしかったため、政治が変わって、皇帝が変わっても、コレクションは、中国の至宝として引き継がれた。

美術品こそが、中国そのものの歴史である。

その後の皇帝も、献上システムも駆使し、世界各国の美術品、工芸品を集め最後の皇帝の時代までそれは続いたということのよう。

番組の中で、最も興味深かったのは、やはり、皇帝所有という印を押したがるという人間的な部分である。

中国の書というのには、どうもハンコが多くて、作品の良さか半減するよなと、以前から思っていたけどね。

権力の誇示の歴史だとすれば納得。

戦利品の掛け軸に、ハンコを押すというのは、ナントモ簡単な作業である。

価値があるものだといい含められれば、価値の判らないものは、従うことが一番簡単である。

権威者から、大切にするように言われれば、そのようにするのが官僚というものである。

この前、イギリスのドラマ「シャーロック」で、中国王朝が所有していたという、翡翠の簪を巡るサスペンスの筋があった。

確か中国の王妃が愛用していた簪だとかいう話。

中国マフィアが、価値を誤魔化すため、骨董に混ぜて、骨董商に置いていた品なのだが、あまりにもショボイ品なので、安物と勘違いし、とある人物が、その品を万引きしたところから事件は始まる。

中国マフィァは、価値を知る仲間が盗んだものと勘違いし、仲間は血みどろの殺し合い。

簪が、何故そんなに高価のかという、ワトソン氏の問いに対して、シャーロックは、

『品物の価値というのは、過去に誰が所有していたかにより決まる』

という台詞があり、アタシはおおいに納得したものであった。

品物の価値を決めるのは、誰なのか。

それは、自分である。

この茄子をいくらで買うか。

今日のトマトは高いから買わない。

まあ、そういう筋の繰り返しが日常である。

絵の価値というのは、実はそこではない。

絵にいくら出せるのか。

その絵を持つ事により、自分の誇示力がアップするのか。

そういう部分に繋がってくる。

アタシは、大量の美術品を見て歩いている。

『へえ、これが』という粗悪な書や掛け軸が、美術館に並んでいることもある。

が、所有者が誰だったのかということも加味された価格だということなら納得。

ぶっちゃけ、個人のコレクションというものは、買ったもの、貰ったものの二種類が混濁している場合が多いのだ。

が、コレクションなので、大事にしてくれる。もしくは、適切な方法で管理され、長期に、大量に放置(普通はこんな感じ)

その人の死後、遺族や、美術関係者が、蓋を開けて、まとめて美術商に売り渡される場合も多い。

美術商は、テキトウな話をでっち上げ、小金を持っている鼻の穴を大きくして、買う気満々のオヤジを垂らし込む。

嫌まあ、商品の価格というのは、お互いの折り合いで決まるもので、定価というものは存在しないのだ。(商法的な話ですぜ)

ということは、誰が悪いのかといえば、価値の無いものやニセを高値で売るほうも悪いが、

価値が良くわからないのに、金を払うアナタも悪いということになる。

商法的にはケンカ両成敗で、払ったお金は戻ってこない。

そういうオチが待っていて、損したほうが、損害を蒙るという事実だけが残る。

あは。お宝、何でも鑑定団を長年見ているとね、イロイロなことがあるもんねー。

だけど、どうして、持ち主は、価値のことを客観的に知ろうとしないんだろうね。

地方は不利とは思うけどね、東京国立博物館には資料もイッパイあるけどね。

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