◆◆◆ 1997 ★ ダビデ像 ◆◆◆

インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送

(あとはいつでも見れますよん)

2014.5.17.

ダビデの番組がテレビで放映されていたので、『もしかしたら、来日するのかもな』と思ったりする。

ミケランジェロのダビデは、以前、ベルニーニの作品と比較された番組を見たことがあった。

解説の日本人の研究者の方は、あの、ダビデの、首筋の、血管や、当に、的に武器を投げつけようとする瞬間の緊張具合などが、特に優れていると語り、あの、ベルニーニのニンフが木に変わろうとしている有名な作品よりも、こっちの表現の方が上だなどと話していた。

個人的には、ベルニーニに一票。

でもまあ、どちらも優れているということに間違いは無い。

興味深かったところは、この、瞬間的な表現に、静的な表現も加わった美意識という評価価値である。

日本画というのは、特に、静やかなる雰囲気の中に微かに感じられる動き。

という表現も多くある。

し、それを絶賛する評論の方も多い。

展示はといえば、全く動いていない絵と並んでおり、どちらも高く評価されているから、見るほうは気をつけなければならない。

私も多く美術品を見て歩いているが、最近は、国立博物館に行くと、心が落ち着くというかね。

有名作品の大量展示で、常設だけでも楽しめる。

宗像志功が、売れない時代に、国立博物館に通い、仏像のデッサンをしたという話を思い出す。

ダビデの話に戻れば、どちらかといえば、静止的な造詣に見えるけど、実は激しい意思や、瞬間的な感情・精神的なものが含まれている。

ということになり、そういう、緊張感を含めた作品に対し、研究の方々は賛辞を送っているということになる。

他に例を見ないといえば、そういうことになる。

だから、より、存在が際立つということである。

という作品解説に触れなければ、日本画の静なる美意識というのの理解も、今一つだったように思う。

未だ、解らない部分も無いということでもない。

有名絵画には、多少なりの動きは感じられる場合が普通だし、それ以外の作品が収蔵品の中に混じっているのもゴクゴク普通の話であるからだ。

理由は、美術館の収蔵品が、一般市民からの寄付を中心に収集されているというところが大きい。

一般市民の中には、ニセと本物が見分けられないひとから、有名画家の遺族までおり、多様である。

集まった作品というのは、もっと多彩ということになり、学芸の人であっても、それが本物かニセかの判断が付かない、手の混んだ贋作というのが、世の中に存在するということも、よくある話である。

先日殺された古美術商の人も、陶芸家が作った贋作を店で販売していたということになる。

長らく、その陶芸家の作品だとは気づかずにである。

いつ、それが贋作かが解ったかというのも問題であるが、わかったときには、すでに長い時間が経過しており、今さら偽だったという申し出をすることもできなかったのだと思う。

ニセを作る人というのは、実は、技術は物凄く高いのである。

が、自分の作品というものを作り出すことは出来ない場合が多い。

作れたとしても、売れたりもしないのも、また普通である。

画業に絶望しているのは、別に、私一人ではない。

ギャラリーの内装工事は、前途多難。

お粥マシンを収納する場所を作るため、既存の棚を壊したり、荷物を捨てたりしているけど、それ以上に新しい品が入り込んできて、絶対的な質量が多すぎる。

品物をかなり処分しながら、材料がでてくると、また違う品を作ってしまうというところもネック。

とりあえず、お粥マシンを収納すると、ピエタ像が、今おいてある場所では、ムリということが判る。

あの美しい像は、身近に置いておきたいけどな。

はぁ。

ラファエロ、モナリザ、ピエタという、イタリア三大巨匠のコーナーは、来客にも大人気。

名画というものは、心が安らぐので困る。

おじゃら画廊

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