◆◆◆ 1964 ★ 荻原碌山 ◆◆◆

インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送

(あとはいつでも見れますよん)

2014.2.12.

テレビ番組を見る。荻原碌山の彫刻の番組である。

彼のことは知らなかったが、地元の人が、以前、お金を出し合って彫刻の美術館を作ったとかいう番組を昔見たことがあり、もしかしたら、この人だったかもしれないと思出だす節はあった。(違っているかもしれませんが。)

彫刻というのの耐久性は長いからね。

展示もラクなのである。

優れた作品がたくさんあって、処分されようとしていれば、守ろうとする人も必ず出てくるということになる。

ブロンズ像となれば、500年ぐらいは軽く持つ。屋内であれば、もっと持つかもしれない。

しかも、重いので盗んだりできないし、ショーケースなどに入れる必要もないのである。

まあ、入れたほうがいいのだが、陶芸や人形のように、触られると壊れたりはしないということになる。

萩原は、ロダンに師事したと、番組で流れていた。

ロダンの作品を見て、影響を受けない芸術家はいない。

平面を作っていた彼が、彫刻家になる決意を固めるほどである。

海外では、ロダンのような、極端な内面表現の作品が多く作られたが、帰国後は、日本の美意識も取り入れ、独自の世界を切り開いた。

ここのところ、日本画や、伝統工芸などの作品を見に行くことが多かった。

それは、日本の美意識の真髄を知る旅である。

ロダンは、「被写体がとまっていたとしても、作品が動いていなければならない」と語っていた。

動きについては、アタシも随分と前から、芸術表現には不可欠だと話していることのひとつであるが、日本の美意識というのは、極まった感動表現というよりは、静やかな中に湧き上がってくる人間の情動というのをあらわしていることが多い。

というのを確認するために、作品を見て歩いているということになる。

展示というのは、展示者の事情によるものであり、見る側の事情とは、必ずしも一致しない。

よい作品は数点で、悪い作品と混在して展示されている場合が多い。

日本の鑑賞者は、作品を見てオーラを感じとるというよりは、解説の文を読み鑑賞する場合が多い。

展示の評価のよしあしは、解説文の丁寧さや、文字の大きさや、数ということになり、作品の良し悪しとは別な場所にある。

であるからして、よい作品と、悪い作品の識別は、素人にはつけづらい。

有名な作品、人気のある作品、テレビや新聞で紹介された作品、というように、メディアでの露出が多ければ多いほど人を引き込むという構図が生まれてもいる。

別段そのことは否定しないが、その絵の周りにだけ人だかりができるという実態もある。

テレビで紹介されている作品であっても、「へぇこれが」

という品もあるし、実物を見ても、「へぇ、これが」と思うこともある。

それは、こちらの鑑賞能力の低さなのか、学芸の力なのか、予算的な問題を含む展示品の綜合的な力なのかというのは、都度、事情が違うということになにる。

絵画の展覧会は、フリーのキュレーターや、イベント企画会社が企画し、美術館に企画を持ち込み、決まるという流れが多い。

まれに、収蔵品展のような、予算が出せないときに、仕方なく、手持ちのみで開かれる展覧会もある。

嫌まあ、収蔵品展が悪いといっているのではないが、長らく通いつめていると、ほとんどの作品を見たことあるわけで、新しさは感じられない。

話を元にもどすと、日本の美意識というものは、静やかな中にある、感動表現。情動描写ということになる。

そういったものをヨイと評価している人が大多数ということだ。

それは、素人が、口をそろえて言っているのではない。専門家が、日本の美意識という共通項を持ち、そういったものを紹介し続けているということになる。

ロダンや、ベルニーニのような、極端な感情表現や、極まった動きの最大値を切り取るという作業より、長らくの貧乏や苦労、苦難に静かに耐え抜いた、日本人の芯の強さや、かすかなる苦しみの表情を浮かべた瞬間を表現する。

ということになる。

それは、ミケランジェロのダピテ像とか。ピエタ像に見られる、それと同じである。

おじゃら画廊

Established 1998 Rica's Bar WEB SITE & Since 2003 Atelier Ojara.
Copyright (C) All Rights Reserved by Rica Ojara.