◆◆◆ 1921 ★ 新しい茶碗 ◆◆◆

インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送

(あとはいつでも見れますよん)

2013.12.6.

新しい茶碗が届く。

ウンチクによれば、小堀遠州が定めた七窯の一つを継承したという話。

赤膚焼という呼び名のようで、黄色がかった乳白色と、胴長のフォルムが美しい写真だった。

春に根津美術館で遠州の美意識展を見たせいかな。

届いたものは、全く違うような気もするが、それはそれ、低予算以上の美しさだと思う。

楽茶碗のときにも思ったのだが、茶せんでお茶を泡立てる、その、撹拌の容の大きさというのは、重要である。

器が大きすぎると、泡を点てている間に、お湯の温度が下がりすぎ、泡立ちが悪くなってくる。

というか、泡がたたない。

泡立ては、僅かな時間と、適温と、撹拌のスピードで決まる。

品格のヒの字も感じない造形だわ。汗。

千住芸術村のハルちゃんが、ラミネートを借りにやってくる。

そうして、新しい茶碗で、これみよがしに茶は点てられる。

オジャラ「ふわふわに泡立つし、この、長い胴のおかげで、お茶が、スっと冷めて、飲み心地が丁度良い温度になるんだよね。」

ハル「うわっ。ホントですね」

オジャラ「茶碗は、お茶が解った人が作った品に限るわね」

ハル「おじゃらさんは、誰かから、お茶を習ったんですか?」

オジャラ「アタシは我流なの。最初はね、茶道具を一式くれるっていう人がいて、届けてくれてね。そのあとは、泡立ての練習を独習よぉ。ボチボチ、自分でお茶を点ててるじゃない。そうすると、裏(千家)も表(千家)も、センセイが勝手にギャラリーにくるわけ。そんで、そのときに、お茶を点ててもらったりして、また勉強させてもらうのよ。」

という特殊な環境にある。

最初の一回目しか見なかったけど、イケメンの茶道の家元という人のテレビも見たことがあった。

茶道の心は、精一杯のおもてなしのこころ。

今年の流行語にもなった、「おもてなし」

ということだけである。

加えるのであれば、一期一会という言葉であろう。

今、私と、ハルちゃんと、このときには、S井さんの奥さんがいて、三人で集うことは、人生で、これきりかもしれないでしょ。

そういう、たった、これきりの出会いかもしれない時間を、思い出深い、大切なものにしましょう。

だから、主は、精一杯のおもてなしで、客人を迎えるのである。

というのが、茶道の本来である。

「精一杯のおもてなし」は、粗茶でも、さ湯でも構わないのだ。

粗末な古い木椀に、さ湯を差し出したといっても、それが精一杯なのであれば仕方が無い。

重要なことは、そこが、さ湯だったとか、粗末な茶碗だったかではない。

精一杯だったかどうか。

そこが最も大切なところである。

この茶碗、どうしたんだっけな。

売れたのかな?

現代の茶道といえば、その、精一杯という言葉が、「物凄く高い茶道具で」

という言葉にすり替わってしまっている。

お茶の作法についても、本来、何故、作法が産まれたのかといえば、個人的な理解をここに書けば、

「客人を待たせること無く、ムダの無い所作(動きで)お茶を出す」

という所だったと思う。

昔の日本は、暖房というのは、部分的に温を取る場合が多く、部屋の中は寒かった。

茶碗が冷たいと、思うように泡立たないからね。炭で湯を沸かし、茶碗を温める。

温めた茶碗に茶の粉を入れると、茶碗の濡れたところに粉がついて、美しくないので、一旦、それを袱紗で拭き上げ、その中に粉を入れる。

柄杓やら、柄杓置き、フタなどの置き場がないと、連続した動きが中断するので、そういった品も茶道具として仲間に入ってくる。

そういったところだろうと思う。

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