◆◆◆ 1918 ★ ケリー天国へ-5 ◆◆◆
インターネットラジオFM北千住 ときどきゲリラ的に収録・生放送
(あとはいつでも見れますよん)
2013.11.28. アタシは、日本に帰国してからも、しばらくは絵を描いていた。 不景気になって、というか、ゴミみたいな絵を作ってもしょうがないという理由から、もう少し、考えて絵を描こうと思ったこともある。 素描のような、ドローイングは繰り返し描いているけれども、もう、乾燥棚に絵も入らない。 正確に言うと、熱にうなされたように、絵を見て歩く日々が続いた。 それは、チケットを安く手に入れられれば、どこにでも行った。 テレビで、良さげな展覧会や、見たことが無い作風なども、その絵がどうやって描かれたのかを見に行った。 バリ島にいるときには、ぶっちゃけ、パリ伝統絵画の美術館しかないしね。 あとは、プラノトギャラリーに集う皆様の絵と、グレートアーティストという、アタシがパリに持って行った、絵の図録の雑誌のみ。 |
ケリーのお気に入りの夢二の赤い着物の絵 |
ぶっちゃけ、アタシ、日本にいた頃は、ハードワーカーだったので、絵なんて、見たことが無かったんだよね。 あのまま、パリにあと一年でも住んでいたら、アタシの画力はもっと上がったんだと思う。 日本で、大量の現代美術を見た結果、アタシは前衛芸術に傾倒。 ケリーの対極になる。 自分の力の足りなさというのも受け入れられるようになり、なによりも、クロッキーは、絵の練習で、本画というのをみんな作るという絵の常識を知ることができた。 という常識の中、クロッキーを仕上げて販売しているという勝負根性はスゴイよね。 売れているっていうのもスゴイけどね。 彼女が、日本にきて、嫌、どの国でも構わないけれども、もっと沢山の作品に触れたのであれば、彼女は、もっと、新しい道を進めたと思う。 それは、才能だからである。彼女は頭がよく、飲み込みの早い女だった。 バリ島のように、土産物で、しかも複製絵画が中心のマーケットでは、絵の成長のしようがない。 それは、帰国したアタシが、一番よく理解できている。 バリに住んでいた時には、「芸術とは何か」を考えたりはしなかった。 日々クロッキーを描き、以前の描きかけの絵を仕上げるだけで精一杯。自分なりには、こうしたいという思いがあっても、技量もまだまだで、本当に下手だったなと思う。 今がうまくなったってことでもない。 でもまあ、前に突き進む力だけはあったよね。 何も考えなかったからね。 |
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ケリーは、そのまま、誰かに学ぶチャンスもなく、人物と風景を交互に描く生活。 そこが悔しい。 アタシに何かできることがあったんじゃないかと思う。 ケリーは、アタシの前衛的な作品を見たら、 「RICA, what happen?」 と言い、そうして、どうしてこういう作品を作るようになったのかを、必ず尋ねてくると思う。 聞かないことはできない。 前衛芸術を解説してくれる人は少ない。 「よくわからない」作品は、よくわからないまま放置される。 彼女ぐらい絵を描ける人の制作方針に、難癖をつけられるほど、アタシもおせっかいではない。 三岸節子が、番組の中で語っていた 「私に何かを教えてくれる人はいない」 そう、誰も、教えてくれたりはしないのだ。それが、プロの世界というものである。 良いとは言われても、悪いという話は、自分の前でされたりもしない。 他の作品から、学びとる力もなければ、作品は成長もしないのである。 |
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友人だからこそ、そういう、表現の多様性や、自由さ、動きについても意識して作品を作るようにと、伝えるべきだったんじゃないのか。 私が、わざわざそう言えば、アタシが何故、いまさらそんなことを言うのか、考えたはずだし、必ず手に入れたと思う。 そうしたら、絵はもっと売れたと思う。 彼女と、一度だけでも、語り合う時間が必要持てたらヨカッタのにと思う。 それが、たとえ、激論になったとしても、友情が決裂したりしたとしてもである。 それだけが心残り。 彼女の絵は、ヨイ絵は、ギャラリーで結構売ってたからね。 葬式のセレモニーで、手持ちの、良い絵もほとんど売れちゃうだろうしね。 図録などに残ったりもしないのかと思うと、ついてない。 私は、日本に帰国するときに、絵の写真を四角く撮影し、なるべく、全ての絵を撮影しておくように伝えたと思う。 WEBに掲載されているのは、ほんの少しのはずだ。 彼女の創作量は、アタシの知る限り、知人の中で、一番じゃないかと思う。 |
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